2026-08-18

連載「天皇と靖国神社第4回(全7回)

東京裁判と昭和天皇

東京裁判と昭和天皇 ―― なぜ天皇は裁かれなかったのか

A級戦犯として東条英機(とうじょう ひでき)ら28人が起訴された、極東国際軍事裁判――いわゆる東京裁判

けれど、その被告のなかに、いてもおかしくないのに、いなかった人物がいます。昭和天皇です。開戦時の国家元首であった天皇が、なぜ裁かれなかったのか。この記事では、その事実を、研究や一次資料にもとづいて整理します。前回までの富田メモ昭和天皇の参拝A級戦犯の記事と、あわせてお読みください。


東京裁判と、被告のなかにいなかった人物

東京裁判(1946〜1948年)は、「平和に対する罪」(A級)などの訴因で、戦争を指導したとされる人々を裁いた裁判でした。東条英機元首相をはじめ、28人が起訴されました。

当時、天皇は大日本帝国憲法のもとで、統治権を総攬(そうらん)する立場にありました。形のうえでは、国家の元首です。ですから、連合国のなかに「天皇こそ裁くべきだ」という声があったのは、むしろ自然なことでした。

それでも、昭和天皇は起訴されませんでした。この一点には、深い背景があります。


なぜ昭和天皇は訴追されなかったのか

結論から言えば、アメリカ、とりわけ連合国軍最高司令官マッカーサーの、占領統治上の判断が決定的でした。

マッカーサーの秘書だったフェラーズ准将は、1945年10月、天皇の訴追を防ぐための理論武装として、いわゆるフェラーズ・メモを作成したとされます。そして海軍の旧軍令部などでも、開戦の責任が天皇に及ばないよう、裁判に備えた想定問答が、水面下で準備されていきました。

決定的だったのが、1946年1月25日、マッカーサーがアメリカ本国に送った電報です。そこで彼は、天皇に戦争犯罪の明白な証拠は見当たらないとしたうえで、こう伝えました。もし天皇を起訴すれば、日本国民の間に大きな混乱が生じ、占領の維持には膨大な軍隊の増強が必要になるだろう、と。

昭和天皇が訴追されなかった流れ

つまり、天皇を裁かないという判断の中心にあったのは、「天皇は無実だ」という道義的な結論というより、占領を円滑に進めるための、政治的・実務的な計算でした。天皇を「象徴」として残し、その権威を通じて日本を間接的に統治する――アメリカは、その道を選んだのです。

ここは、事実として、冷静に押さえておきたいところです。


連合国のなかの対立

天皇不訴追は、連合国が最初から一致して決めたことではありません。むしろ、国のあいだで意見が割れていました

天皇の訴追に最も熱心だったのが、オーストラリアです。ソ連なども、天皇の責任を問うべきだという立場でした。戦争で大きな被害を受けた国々にとって、それは当然の主張でもありました。

しかし、マッカーサーが不起訴に大きく傾いたことで、流れは変わります。連合国の意思決定機関である極東委員会も、1946年4月3日に「戦争犯罪人の逮捕、裁判及び処罰」についての政策決定を出しました。そうしたなかで、オーストラリアの検事が法廷で改めて天皇の訴追を提議しましたが、これも退けられます。

最終的に、天皇の訴追を求めていた国々も含めて、関係国は不訴追で足並みをそろえました。国際政治の力学のなかで、アメリカの判断が通った、ということです。


東条英機の証言 ―― 危うかった一瞬

天皇不訴追の方針にとって、法廷で最も危うい瞬間が、東条英機の証言でした。

東条は、弁護側の尋問に答えるなかで、「日本の臣民が、陛下のご意思に反して行動することは、ありえない」という趣旨の発言をします。これは、天皇の意思が開戦につながったと受け取られかねない、際どい証言でした。天皇を免責するという方針にとって、きわめて不都合だったのです。

そこで、主席検事キーナンの反対尋問を経て、証言は事実上、修正されていきます。開戦は天皇の意思だったのかと問われた東条は、「陛下のご意思は(開戦に)反していたかもしれない。しかし、私や統帥部の責任者の進言によって、しぶしぶご同意になった」という趣旨に、発言をあらためました。

こうして、「開戦は天皇の意思ではなかった」という形が、法廷で整えられていきます。この過程には、天皇を守ろうとする周辺の働きかけがあった、とする研究もあります。事実として確かなのは、きわどい証言が、結果として天皇の責任を問わない方向へ収められていった、という点です。


パール判事の反対意見

東京裁判には、判決に加わった判事のなかに、被告全員の無罪を主張した人物がいました。インド代表のパール判事です。

パール判事は、長大な反対意見(意見書)を提出しました。その柱は、A級戦犯の記事でも触れた、事後法(あとから作った法で裁くこと)への批判と、「勝者による裁き」ではないかという疑問でした。

注意したいのは、パール判事の意見は、「日本の戦争が正しかった」と述べたものではない、という点です。あくまで、裁判の法的な手続きや正当性を問うたものでした。ここはしばしば誤解されるところなので、区別しておきたいと思います。

そのうえで、この反対意見の存在は、東京裁判が、当の判事たちのあいだでも、評価の分かれる裁判だったことを示しています。


天皇の戦争責任を、どう考えるか

ここは、最も慎重に扱うべきところです。天皇の戦争責任については、今も歴史的な議論が続いており、法的な決着がついたわけではありません。事実と解釈を、はっきり分けて考える必要があります。

事実として言えることは、東京裁判で天皇は訴追されず、その判断の中心にはアメリカの占領統治上の計算があった、ということ。そして、当時の天皇が、憲法上は元首でありながら、実際の政治や軍事の決定にどこまで関与したのかをめぐっては、資料の読み方によって評価が分かれる、ということです。

解釈として分かれることは、その事実を、どう評価するか。天皇は立憲君主として、輔弼(ほひつ)する政府や統帥部の決定に従う立場だった、とする見方があります。一方で、元首として一定の責任は免れない、とする見方もあります。

この記事は、どちらか一方に断定するものではありません。「議論が続いている」という事実そのものを、まず公平に受け止めることが大切だと考えます。


筆者の考え

ここからは、筆者の考えです。

東京裁判で天皇が裁かれなかったことを、どう評価するか。筆者は、そこに軽々しく善悪の判定を下すことはできない、と感じています。占領を円滑にするための政治的判断だったという側面は、事実として認めなければなりません。

そのうえで、筆者が静かに考えるのは、一つの「歴史のif」です。

もし、あのとき昭和天皇が訴追され、退位や、あるいはそれ以上の事態に追い込まれていたら、どうなっていたか。当時、連合国のなかには、天皇の訴追だけでなく、天皇制そのものの廃止を求める声もありました。天皇が戦犯として裁かれることは、その廃止論と、容易に結びつき得たはずです。

もしそうなっていれば、千数百年にわたって受け継がれてきた皇統は、あの時点で断たれていたかもしれません。私たちが今、当たり前のように仰いでいる皇室は、存在していなかったかもしれないのです。

歴史のif ―― もし昭和天皇が裁かれていたら

その意味で、東京裁判の判断は、動機がどうであれ、結果として、今日まで続く皇統にとって、決定的な分かれ道だったと言えます。歴史とは、こうした細い糸の上を、危うく渡ってきたものなのだと、あらためて思わされます。

もちろん、これは一つの見方にすぎません。けれど、富田メモ靖国参拝A級戦犯といった、戦後の皇室をめぐる重い問いを考えるとき、この「危うい分かれ道を渡ってきた」という感覚を、筆者は大切にしたいと思っています。


まとめ

  • 東京裁判で、開戦時の元首だった昭和天皇は起訴されなかった。
  • その中心にあったのは、マッカーサーの占領統治上の判断。天皇を「象徴」として残し、間接統治に利用する狙いがあった。
  • 天皇訴追を求めたオーストラリアやソ連もあったが、最終的に関係国は不訴追で合意した。
  • 東条英機の証言は、天皇の責任を問わない方向へと収められていった。
  • パール判事は、裁判の法的正当性を問い、被告全員の無罪を主張した。
  • 天皇の戦争責任は、今も議論が続き、法的決着はついていない。事実と解釈を分けて考える必要がある。

もし昭和天皇が裁かれていたら、皇統は途絶えていたかもしれない――。歴史の細い糸を思いながら、事実を冷静に見つめたいと思います。


参考・出典