2026-07-08

なぜ二度、天皇になったのか ―― 皇極・斉明天皇と飛鳥の激動
645年の乙巳の変(いっしのへん)。蘇我入鹿(そがのいるか)の暗殺。そして、大化の改新。
この時代の主役として、多くの人は、中大兄皇子(なかのおおえのみこ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)を思い浮かべます。
けれど、その激動の時代の中心には、一人の女性天皇がいました。しかもその人物は、二度、天皇になっています。
皇極天皇(こうぎょくてんのう)、そして斉明天皇(さいめいてんのう)。同じ一人の方です。
なぜ、同じ人物が、二度も即位したのでしょうか。今回は、飛鳥時代最大の激動を、この女性天皇を軸に、たどってみます。
なぜ、皇極天皇は即位したのか
641年、舒明天皇(じょめいてんのう)が崩御します。翌642年、その皇后だった宝皇女(たからのひめみこ)が即位しました。これが、皇極天皇です。
ここで、おさえておきたいことがあります。当時は、「女性だから即位できない」という時代ではありませんでした。前回見た推古天皇に続く、女性天皇です。
しかも、男性の皇族がいなかったわけでもありません。舒明天皇の子には、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)もいましたし、宝皇女自身の子である中大兄皇子もいました。ただ、中大兄皇子はまだ若く、即位には早かったと考えられています。
それでも、即位したのは宝皇女でした。彼女は、舒明天皇の皇后であり、有力な皇子たちの母でもある、皇室の中心人物だったのです。
そして、もう一つ大切なこと。女性天皇が立つことは、「男系が途絶える」ことを意味しません。皇極天皇ご自身、父方をたどれば敏達天皇(びだつてんのう)につながる、男系の皇族でした。そして、その後の皇位も、男系で受け継がれていきます。女性天皇=男系の断絶、ではないのです。

乙巳の変 ―― 目の前で起きた惨劇
皇極天皇の時代に、歴史を大きく動かす事件が起こります。
645年、中大兄皇子と中臣鎌足が、当時、強大な権力をふるっていた蘇我氏の蘇我入鹿を、暗殺したのです。これが、乙巳の変です。
このとき、入鹿が討たれたのは、なんと皇極天皇の、すぐ目の前でした。『日本書紀』には、突然の惨劇に、天皇が動揺された様子も記されています。
事件のあと、皇極天皇は、位を譲ります。当時、譲位そのものは、珍しいことではありませんでした。けれど、乙巳の変という大きな政変の、すぐあとでの退位は、きわめて異例のことでした。
なぜ、再び天皇になったのか
皇極天皇の譲位を受けて、即位したのは、弟の軽皇子(かるのみこ)――孝徳天皇(こうとくてんのう)でした。中大兄皇子は、すぐには即位せず、皇太子として政治を進めます。なぜ、最大の功労者だった中大兄皇子が、このとき即位しなかったのか。実は、これは、今でもはっきりとは分かっていません。
ところが、654年、孝徳天皇が崩御します。
すると翌655年、いったん退いていた皇極上皇が、ふたたび天皇の位につきました。これが、斉明天皇です。このとき、すでに60歳を超えておられました。
一度退いた天皇が、もう一度即位することを、重祚(ちょうそ)といいます。実は、日本の長い歴史のなかで、重祚はたった二例しかありません。一つが、この皇極(斉明)天皇。もう一つが、のちの孝謙(称徳)天皇です。そして、そのどちらもが、女性天皇でした。皇極天皇は、その最初の一人だったのです。

斉明天皇の時代 ―― 大規模な国家事業
二度目の即位のあと、斉明天皇の時代には、大規模な土木事業が次々と行われました。
- 飛鳥での、宮殿の建設。
- 大がかりな、運河(水路)の工事。
『日本書紀』には、大きな石を運ばせたり、長い水路を築かせたりした様子も記されています。こうした工事は、後世には「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」などと、批判的に語られることもありました。
実際、古くは「むだな浪費」と見られることもありました。けれど近年は、国家の威信をかけた、計画的な事業だったのではないか、という見方も出ています。古代国家が、形を整えていく時代だったのです。

百済滅亡と、九州への行幸
斉明天皇の晩年、東アジアは、大きく揺れていました。
660年、朝鮮半島の友好国だった百済(くだら)が、唐と新羅(しらぎ)の連合軍によって滅ぼされます。日本(倭国)は、その百済を助けるため、出兵を決めました。
そして斉明天皇は、なんと自ら、九州まで向かわれます。九州・朝倉宮(あさくらのみや)に拠点を移し、戦いに備えました。すでに高齢の身でのことです。
しかし、661年、斉明天皇は、その朝倉宮で崩御されました。
その二年後の663年、日本は白村江(はくすきのえ)の戦いで、唐・新羅の連合軍に大敗します。斉明天皇は、飛鳥時代でも最大級の国難の、すぐ手前で世を去られたのでした。
筆者の考え
ここからは、筆者の考えです。
皇極・斉明天皇という方を見ると、「女性天皇とは、何だったのか」という問いが、いかに難しいかが分かります。
- 女性だから、即位したのではない。
- 男性の皇族が、いなかったわけでもない。
- かといって、単なる「中継ぎ」とも、言い切れない。
- しかも、二度までも天皇になっている。
むしろこの方は、乙巳の変から白村江の前夜まで、飛鳥時代の激動のまっただ中で、国家の中心にあり続けた方でした。
今の「女性天皇」の議論では、過去の女性天皇が「前例」として語られます。けれど、皇極・斉明天皇お一人をとっても、その役割は、とても一言ではくくれません。歴史上の女性天皇は、それぞれにまったく違う事情のなかで即位し、それぞれの務めを果たされた――その事実は、今の議論を考えるうえでも、静かに示唆を与えてくれるように思います。
まとめ
- 641年、舒明天皇が崩御。翌642年、皇后の宝皇女が即位し、皇極天皇となった。
- 当時は「女性だから即位できない」時代ではなく、男性の皇族もいた。それでも皇室の中心人物だった宝皇女が立った。女性天皇=男系の断絶ではない(皇極天皇も男系の皇族)。
- 645年、乙巳の変(中大兄皇子・中臣鎌足が蘇我入鹿を暗殺)を、その目の前で経験し、退位した。
- 弟の孝徳天皇の即位を経て、654年に孝徳天皇が崩御。
- 655年、ふたたび即位して斉明天皇に(重祚)。日本史上、重祚は皇極〔斉明〕と孝謙〔称徳〕の二例のみで、いずれも女性天皇。
- 斉明天皇の時代には大規模な国家事業が行われ、百済滅亡(660)を受けて自ら九州へ。661年に朝倉宮で崩御し、その二年後(663)に白村江の戦いが起きた。
乙巳の変から、白村江の前夜まで。飛鳥時代の激動のまっただ中に、二度、天皇の位に就いた女性がいました。
皇極天皇にして、斉明天皇。その歩みは、「女性天皇とは何か」を、一言ではくくれないことを教えてくれます。
歴史上の女性天皇は、それぞれに違う事情のなかで即位し、それぞれの務めを果たされたのです。



