2026-07-07

連載「女性天皇をたどる」第1回(全8回)

最初の女性天皇は、なぜ生まれたのか

最初の女性天皇は、なぜ生まれたのか ―― 推古天皇と聖徳太子の時代

多くの人が知っている歴史上の人物に、聖徳太子がいます。十七条憲法、冠位十二階、遣隋使と、教科書にも必ず登場する人物です。けれど、「では、そのときの天皇は誰だったか」と聞かれると、意外と答えられないかもしれません。その天皇こそ、日本で最初の女性天皇とされる、推古天皇(すいこてんのう)です。では、なぜ日本で最初の女性天皇が生まれたのでしょうか。実はそこには、今の女性天皇の議論とは、まったく違う事情がありました。


聖徳太子の時代は、推古天皇の時代でもあった

推古天皇は、日本で最初の女性天皇とされる方で、在位は593年〜628年です。そして、その推古天皇を支えたのが、甥にあたる厩戸皇子(うまやどのみこ)――のちに「聖徳太子」と呼ばれる人物です。つまり、私たちが「聖徳太子の時代」と呼ぶその時代は、そのまま「推古天皇の時代」でもあったのです。


崇峻天皇の暗殺という、非常事態

推古天皇が即位する直前、皇室は大きな混乱のなかにありました。当時、朝廷では、仏教を受け入れるかどうかなどをめぐって、蘇我氏(そがし)と物部氏(もののべし)という二つの有力豪族が激しく対立していました。そうしたなか、用明天皇が即位からわずか二年ほどで崩御します。すると、その対立は一気に武力衝突へと発展し、蘇我氏が物部氏を倒して大きな力を握りました(587年)。

そして、その蘇我氏に推されて即位した崇峻天皇(すしゅんてんのう)も、やがて蘇我氏の長・蘇我馬子(そがのうまこ)と対立し、592年、暗殺されてしまいます。『日本書紀』は、この暗殺に蘇我馬子が関わったと記しています。天皇が殺されるという、まさに非常事態でした。推古天皇の即位は、こうした政治的な危機のすぐあとのことだったのです。

推古天皇の即位まで


最も適任の皇族が、たまたま女性だった

では、その難しい局面で、なぜ推古天皇が選ばれたのでしょうか。推古天皇(額田部皇女・ぬかたべのひめみこ)は、皇室の中心にいた方でした。欽明天皇(きんめいてんのう)の皇女であり、敏達天皇(びだつてんのう)の皇后であり、用明天皇の、同母の妹であり、崇峻天皇の、姉(異母)にあたります。つまり、父も、夫も、兄も、弟も、みな天皇という、またとない立場にあった方なのです。

そのため、推古天皇には、皇統の正統性がきわめて高く、対立する皇族や豪族の調整役になれて、混乱した政治に安定をもたらしてくれるのではないか、という期待が寄せられました。ここで大切なのは、「女性だから選ばれた」のではないということです。むしろ、「最も適任の皇族が、たまたま女性だった」。そう理解するほうが、実態に近いのです。


推古天皇と、厩戸皇子(聖徳太子)

即位した推古天皇は、甥の厩戸皇子を皇太子とし、国政を任せたとされます(ただし、この「皇太子」という地位は、当時まだ確立したものではなかった、とも言われます)。なお、厩戸皇子は、有力な皇位継承候補の一人だったと考えられますが、次の天皇が誰になるかが、完全に決まっていたわけではありませんでした。

こうして、推古天皇が国家の中心に立ち、厩戸皇子(聖徳太子)が政治を補佐し、蘇我馬子が有力豪族として実務を担う、という三者の体制が生まれます。冠位十二階(603年)や十七条憲法(604年)、遣隋使といった、教科書でおなじみの政治は、この時代に進められました。

飛鳥時代の三者の体制


「聖徳太子」は、後の世に贈られた名前

「聖徳太子」という名前は、実は後の世に贈られた尊称です。この呼び名が文献に初めて現れるのは、亡くなってから百年以上もたってからのこと。生きておられたころは、厩戸皇子(うまやどのみこ)などと呼ばれていました。こうした事情から、近年は「厩戸王(うまやどのおう)」という呼び名で紹介されることもあります(教科書でこの表記を用いる案が議論されたこともありました)。あまりに有名なため意識されにくいのですが、「聖徳太子」もまた、後世の呼び名なのです。


推古天皇が担った三つの役割

推古天皇が果たした役割は、大きく三つに整理できます。一つは皇統の安定で、乱れた皇位継承をいったん落ち着かせること。二つ目は政治的な調整で、皇族と豪族のあいだをとりもつこと。三つ目は次代への橋渡しで、次の世代へ皇位をつなぐことです。推古天皇の時代には、厩戸皇子や田村皇子(たむらのみこ)など、有力な皇族が複数いました。しかし、次の天皇が誰になるかは、必ずしも定まっていたわけではありません。

推古天皇は、その間に立って、皇統の安定を支えた天皇でもあったのです。つまり、推古天皇は「女性だから即位した」のではなく、「次の天皇が誰になるか、まだ定まらない時代に、皇統を安定させるために即位した」と見ることもできます。当時の人々にとって大切だったのは、「女性でもよいのか」ではなく、「皇統を、どう安定させるか」だったのかもしれません。

言いかえれば、推古天皇の時代は、「女性天皇という制度を、積極的に認めよう」とした時代ではないのです。あくまで、混乱を収め、皇統を次へつなぐために、最も適した皇族が立たれた――そういう即位でした。


今の女性天皇の議論との違い

今の議論で問われているのは、女性天皇を認めるかどうか、女系天皇を認めるかどうか、これからの皇統をどうつないでいくか、といった、制度をどう変えるかという問題です。一方、推古天皇の時代は、男系で皇位をつなぐことが当然の前提でした。推古天皇自身も男系の皇族で、その後も、皇位は男性の天皇へと継承されています。つまり、「男系でつなぐ」という前提は、まったく揺らいでいなかったのです。ここが、今の議論との一番大きな違いです。

推古天皇が担った役割


歴史を、今の物差しだけで測らない

推古天皇は、今の女性天皇論の「前例」として語られることがあります。確かに、日本で最初の女性天皇です。けれど、当時の人々が考えていたのは「女性でもよいか」ではなく、「皇統を、どう安定させるか」だったように、筆者には思えます。推古天皇は、日本で最初の女性天皇であると同時に、混乱した皇統を、次の代へと静かにつないだ天皇でもありました。その役割は、今の議論で語られる「女性天皇」とは、ずいぶん性格が違います。

聖徳太子の時代を静かに支えた天皇の即位は、「女性でもよいか」を問うものではなく、乱れた皇統を次の代へつなぐための、切実な選択でした。歴史を、今の物差しだけで測ると、大切なところを読み違えてしまう。推古天皇の即位は、そのことを、そっと教えてくれているように思います。


参考・出典