2026-09-01

連載「皇室をもっと知る第5回(全9回)

なぜ皇居は東京にあるのか

なぜ皇居は東京にあるのか ―― 京都から東京へ移った本当の理由

天皇のお住まいは、平安京への遷都から数えて千年以上、京都にありました。

それが、今は東京にあります。

では、いつ、どのようにして移ったのでしょうか。「明治維新のときに東京へ遷都した」――そう習った記憶のある方も多いと思います。

ところが、事実はもう少し不思議です。

「遷都の詔(みことのり)」は、一度も出されていません。 そして現在に至るまで、首都を東京と定めた法律もありません。

つまり――日本は一度も、「東京へ遷都する」と宣言していないのです。

正式な宣言がないまま、事実として移った。これが、皇居が東京にある理由です。


明治元年、江戸が「東京」になった

順を追って見ていきます。

東京へ移るまで

  • 明治元年(1868年)7月17日 ―― 「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が出されます。江戸は東の重要な土地であるとして、これより江戸を東京と称する、と定めたものです。
  • 同年10月13日 ―― 明治天皇が東京に入られます(東幸〈とうこう〉)。旧江戸城が東京城(とうけいじょう)と改められ、東京における皇居とされました。
  • 同年12月 ―― いったん京都へお戻りになります。

ここまでは、あくまで「東の都へ行幸された」という形です。京都に帰ってこられた以上、まだ都が移ったわけではありません。

問題は、翌年でした。


明治2年、戻らなかった

  • 明治2年(1869年)3月28日 ―― 明治天皇が二度目の東幸で東京に入られ、東京城は皇城(こうじょう)と改称されます。
  • 同じ時期、政府の最高機関である太政官(だじょうかん)が東京に移され、京都には留守を預かる役所が置かれました。

天皇がおられ、政府がある。実質的に、都は移りました。

けれど、このときも「遷都する」という詔は出されていません。「しばらく滞在される」という形のまま、お戻りにならなかったのです。

だから歴史用語では、この出来事を「遷都」ではなく――

東京奠都(とうきょうてんと)

と呼びます。「奠(てん)」は、定める・据えるという意味です。

「遷都」が「都を移す」ことなのに対し、「奠都」は「新しい都を据える」こと。 京都から都を移した(遷した)のではなく、東京にも都を定めた――そういう言い方になっているのです。


なぜ、はっきり言わなかったのか

「遷都」と「奠都」はどう違うのか

理由は、京都の反発でした。

千年以上、都であり続けた京都にとって、天皇が去ることは町の存立にかかわる大問題です。参議院法制局の解説は、こう書いています。

政府機関も次々東京に移され、事実上の遷都がなし崩し的に実行されてしまいますが、京都の市民をはじめとする遷都反対の声を考慮し、東京を首都とする旨の声明は出されず、まして法律に明記されることもなかったそうです。 ――参議院法制局「首都を定める法律」

この配慮ぶりは、後年の国会でも語られています。1998年、国土庁長官の答弁です。

まあ事実上遷都してしまったのですが、京都の扱いというのは、これは明治政府が、あるいは明治天皇が大変気を使われた点でございます。……大正天皇の即位の礼も京都でやれとかというようなことをわざわざお指図なさっているというようなことで、京都市民の理解を得るためにもう大変な御苦労になっている ――1998年9月30日 衆議院 国会等の移転に関する特別委員会 柳沢伯夫 国土庁長官

実際、天皇が東京へ移られたあと、多くの公家も東京に移住し、京都の公家町は急速に荒廃していきました(環境省・京都御苑の資料)。京都の危機感は、現実のものだったのです。

正面から「遷都」と宣言すれば、京都を切り捨てることになる。 かといって、政府の中枢は東の江戸に置きたい。その板挟みのなかで選ばれたのが、宣言をしないという道でした。

言わずに、済ませた。 ある意味では、きわめて日本的な決着だったといえるかもしれません。


今も、首都を定めた法律はない

驚かれるかもしれませんが、この「宣言しない」状態は、現在まで続いています。

法律は「首都」をどう扱っているか

首都を東京と定めた法律はある?

ありません。 正確には、かつては存在しましたが、すでに廃止されています。

  • かつては昭和25年(1950年)の首都建設法が、第1条で「この法律は、東京都を新しく我が平和国家の首都として……」と定めていました。しかしこの法律は、昭和31年に廃止されています(2018年の質問主意書による)。
  • 現行の首都圏整備法にあるのは「首都圏」という言葉だけです。第2条第1項の定義は「東京都の区域及び政令で定めるその周辺の地域を一体とした広域」。「東京都が首都である」とは書かれていません。
  • 参議院法制局の解説は、こう書き添えています。「そういえば、国会法には、『国会を東京都に置く』などという規定はありません。」

なお、法律にないだけで、政府に迷いがあるわけではありません。昭和54年(1979年)の参議院内閣委員会で、内閣法制局長官はこう答弁しています。

東京が日本の首都であるというそういう確信は、これは日本国民だれもが疑いなくそう信じていることであろうと存じます。 ――昭和54年6月5日 参議院内閣委員会 内閣法制局長官答弁(参議院法制局「首都を定める法律」より)

そして政府自身が、それを認めています。平成30年(2018年)2月、日本の首都についての質問主意書に対し、政府は答弁書でこう述べました。

首都を東京都であると直接規定した法令はないが、東京都が日本の首都であることは、広く社会一般に受け入れられているものと考えている。 ――答弁書(内閣衆質一九六第四八号・2018年2月13日)

法律に書かれていないが、みんながそう思っている。 それが、日本の首都の正体です。


京都御所は、残された

ここが、この記事で一番お伝えしたいところかもしれません。

都が事実上東京に移ったあと、京都御所は取り壊されませんでした。

明治天皇が京都の御所の荒廃を悲しまれ、保存を命じられた――そう伝えられます。京都府による保存事業を経て、御苑は宮内省の管理へと引き継がれました。(この経緯の年次については、一次情報にあたれなかったため、この記事では踏み込みません。)

そして重要なのは、その後の使われ方です。大正天皇と昭和天皇の即位礼は、東京ではなく京都で行われました。 先の国土庁長官の答弁にあったとおり、それは明治天皇ご自身の「お指図」によるものだったと語られています。

つまり――天皇は東京に移られたけれど、京都を手放してはいなかったのです。

京都御所は、今も宮内庁が管理し、一般に公開されています。


皇居は、どう変わってきたか

現在の皇居そのものの歩みも、平坦ではありませんでした。

江戸城から、今の皇居まで

宮内庁は、皇居の沿革をこう説明しています。

徳川幕府の居城(江戸城)であったものが、明治元年に皇居となり、明治21年以来、宮城と称されていましたが、昭和23年、宮城の名称が廃止されて、皇居と呼ばれるようになりました。 ――宮内庁「皇居」

  • 明治元年(1868年) ―― 徳川幕府の居城だった江戸城が皇居となる。天皇は本丸ではなく西の丸の御殿にお住まいになりました。
  • 明治21年(1888年) ―― 明治宮殿が完成し、以後宮城(きゅうじょう)と称されます。
  • 昭和20年(1945年) ―― 戦災により、明治宮殿は焼失します。
  • 昭和23年(1948年) ―― 「宮城」の名称が廃止され、「皇居」と呼ばれるようになります。
  • 昭和43年(1968年)10月 ―― 現在の宮殿が完成。宮内庁によれば「鉄骨鉄筋コンクリート造りの地上2階、地下1階」で、「正殿、豊明殿、連翠、長和殿、千草・千鳥の間など7つの棟」から成ります。使用が始まったのは翌年4月から。同じ昭和43年10月1日からは、皇居東御苑の一般公開も始まりました。

建物は、燃えてもいます。 それでも同じ場所に建て直され、今に続いています。前回まで見てきた式年遷宮や神器と同じで、建物が入れ替わっても、続いているのは場所と役割のほうなのです。


別の見方

東京奠都をめぐっては、いくつかの見方があります。

  • 「事実上の遷都だった」という見方 ―― 天皇も政府も移った以上、実態は遷都であり、宣言がなかったのは政治的配慮にすぎない、という立場。歴史学ではこの理解が一般的です。
  • 「法的には京都が都のままだ」という見方 ―― 遷都の詔がない以上、法的な都は京都であり続けている、という主張です。京都には現在もこの立場からの声があります。
  • 「首都を法律で定めるべきだ」という議論 ―― 実際、国会でも首都機能移転論とあわせて、首都の法的定義をどうするかが議論されてきました。

いずれにせよ、「はっきりしないまま150年以上続いている」という事実は動きません。


筆者の考え

ここからは、筆者の考えです。

この話で一番興味深いのは、「決めなかった」ことが、結果的にうまくいっているという点だと思います。

普通に考えれば、首都のような重大事は法律で明確に定めるべきです。曖昧なまま150年も放置するのは、制度としては褒められたことではありません。

けれど、もし明治政府が「京都から東京へ遷都する」と正式に宣言していたら、どうなっていたでしょうか。京都は「かつての都」として切り捨てられ、御所は荒れるにまかされたかもしれません。宣言しなかったからこそ、京都御所は残り、大正・昭和の即位礼はそこで行われたのです。

そしてこの連載で見てきたものと、どこか似ています。祈りは制度として命じられていない。式年遷宮の理由は文書に残っていない。神器の中身は法律に書かれていない。皇室にかかわる大切なことは、しばしば「書かれないまま」続いてきました。

書かないことは、いい加減さではないのだと思います。書いて固めてしまえば、そこからこぼれるものが必ず出る。 書かずに残したから、京都も東京も、どちらも失われずに済みました。

「首都はどこか」と問われれば、東京です。けれど「都はどこか」と問えば、答えは少し違ってくる。

日本は「白黒はっきり決めない」ことで、大切なものを両方残してきた国なのかもしれません。


まとめ

  • 天皇のお住まいは千年以上京都にあったが、明治元年(1868年)の「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」で江戸が東京と改称され、同年10月の東幸で旧江戸城が東京城=東京の皇居となった。
  • 明治2年(1869年)3月の二度目の東幸で東京城は皇城と改称され、太政官も東京へ移転。事実上、都は移った。
  • しかし「遷都の詔」は一度も出されていない。そのためこの出来事は「遷都」ではなく東京奠都(てんと)と呼ばれる。京都の反発への配慮から、法律上の宣言も行われなかった。
  • 現在も首都を東京と定めた法令はない。首都建設法(1950年)は1956年に廃止され、現行法にあるのは「首都圏」の定義のみ。国会法にも「国会を東京都に置く」規定はない。2018年の政府答弁書は「首都を東京都であると直接規定した法令はないが、広く社会一般に受け入れられているものと考えている」としている。
  • 京都御所は取り壊されなかった。明治天皇の意向で保存され、大正天皇・昭和天皇の即位礼は京都で行われた。1998年の国土庁長官答弁は、それが明治天皇の「お指図」によるものだったと述べている。現在も宮内庁が管理・公開している。
  • 皇居は江戸城西の丸から始まり、明治21年に明治宮殿が完成して以後「宮城」と称され、昭和20年に戦災で焼失。昭和23年に「皇居」と改称され、昭和43年10月に現在の宮殿が完成した(7つの棟から成る)。

次回

天皇が京都から東京へ移られても、変わらなかったものがあります。伊勢の神宮との結びつきです。

次回・第6回は、「なぜ伊勢神宮だけが「神宮」なのか ―― 天皇だけの社が、国民の社になるまで」。全国に約8万社ある神社のなかで、なぜ伊勢だけが別格なのかをたどります。


参考・出典