2026-08-30

連載「皇室をもっと知る第3回(全9回)

なぜ伊勢神宮は20年ごとに建て替えるのか

なぜ伊勢神宮は20年ごとに建て替えるのか ―― 式年遷宮に込められた意味

古い建物を大切に保存する――普通、伝統を守るとはそういうことだと思われています。

ところが伊勢の神宮は、まったく逆のことをしています。20年ごとに、社殿をそっくり建て替えてしまうのです。しかも、それを約1300年続けてきました。

壊してつくり直しているのに、続いている。この不思議な仕組みが、式年遷宮(しきねんせんぐう)です。

先に、この記事の結論をお伝えします。なぜ20年なのか、実は定説がありません。 神宮自身が、そう明言しています。それでも1300年続いてきた――そこにこそ、考えるべきことがあります。


式年遷宮とは何か

式年」は定められた年を、「遷宮」は宮を遷すことを意味します。

神宮の説明によれば、式年遷宮とは、20年ごとに、社殿や御装束・神宝をはじめすべてを新しくして、大御神に新宮へお遷りいただく、わが国最大のお祭りです。

規模は、想像を超えます。

  • 正宮(内宮・外宮)だけでなく、14所の別宮、さらに宇治橋まで造り替えられる。
  • 御装束神宝は、714種・1576点が新たにつくり直され、奉納される。白鳳・奈良・平安時代の様式を今に伝えるため、「現代の正倉院」とも讃えられます。
  • 準備には8年余りをかけ、その間に33のお祭りと行事が行われます。

そして、遷宮のしくみで最も特徴的なのが、場所の使い方です。

式年遷宮のしくみ

社殿の敷地は、東と西に二つ用意されています。20年ごとに、隣の敷地へ新しい社殿を建て、そちらへお遷りいただく。役目を終えた側は更地に戻され(古殿地)、次の20年後に、また新しい社殿が建つ。

同じ場所に建て替えるのではなく、二つの敷地を行ったり来たりする。 だからこそ、お祭りを途切れさせずに建て替えができるのです。


いつ始まったのか

神宮によれば、式年遷宮の制度は約1300年前、天武天皇のご宿願により始まりました。

式年遷宮の歩み

  • 持統天皇4年(690年) ―― 第1回の遷宮。
  • 平成25年(2013年) ―― 第62回。
  • 令和15年(2033年) ―― 第63回を予定。令和7年(2025年)から、すでに一連のお祭りと行事が始まっています。

天武天皇・持統天皇の時代は、律令や『日本書紀』の編纂が進み、国のかたちが整えられていった時期にあたります。前回取り上げた律令(継嗣令)も、この流れのなかで生まれたものです。式年遷宮も、同じ時代の産物でした。


なぜ20年なのか ―― 実は「定説はない」

ここが、この記事で一番お伝えしたいところです。

20年という区切りの理由について、神宮は「定説はありません」とはっきり述べています。

古い記録である『皇大神宮儀式帳』には「常に二十箇年を限りて一度、新宮に遷し奉る」と記されていますが、その理由を書いた文献は残っていません。

神宮のQ&Aは、こう書いています。

素木造りの社殿や萱葺屋根の尊厳を保つため、宮大工や神宝の調製などの伝統技術を継承するためなど、その理由はいろいろ推測されますが、なぜ20年かという定説はありません。 ――神宮「式年遷宮とは」Q&A

挙げられているのは、二つだけです。しかも「など」がついています。

なぜ20年なのか

  • ① 社殿の尊厳を保つため ―― 神宮の社殿は神明造(しんめいづくり)。塗装をしない素木(しらき)造りで、屋根は萱葺(かやぶき)、柱は地中に直接立てる掘立柱(ほったてばしら)です。美しいかわりに、傷みやすい。
  • ② 伝統技術を継承するため ―― 宮大工の技も、御装束神宝をつくる技も、文字では伝わりません。人から人へ、実際にやって見せるしかない。 20年という間隔なら、一度経験した職人が、次の世代に教える側として立ち会えます。

神宮自身が、どれかを正解とはしていません。 理由が失われたまま、行いだけが1300年続いてきた――そう理解するのが正確です。


壊すのに、続く ―― 「常若」という考え方

神宮は、Q&Aで「常若」をこう説明しています。

「常に若々しい」という意味の言葉であり、神宮にとっての理想です。式年遷宮を説明する際によく語られます。遷宮を繰り返すことにより「古くて新しい」神宮は常にみずみずしくあり続けます。 ――神宮「式年遷宮とは」Q&A

「20年の理由」としてではなく、神宮の理想として語られている言葉です。

石造りの建築なら、古いものをそのまま残すことが「続く」ことになります。けれど木と萱でできた社殿では、そのやり方はとれません。

そこで神宮が選んだのは、建物を残すのではなく、つくり方を残すという道でした。

  • 建物そのものは、20年で入れ替わる。
  • けれどかたち・技術・作法は、そっくりそのまま次へ渡される。

残すべきものを「もの」ではなく「わざ」に置いたから、1300年もったのです。

この考え方は、皇室のあり方とも重なります。天皇という個人は代替わりしていきます。それでも祈りという務めや、皇位の継ぎ方は受け継がれてきました。入れ替わることと、続くことは、矛盾しない。 式年遷宮は、そのことを目に見える形で示しています。


皇室との関わり

式年遷宮は、神宮だけの行事ではありません。皇室が深く関わっています。

とりわけ重要なのが、遷宮の中心となる儀式――大御神が旧宮から新宮へお遷りになる「遷御(せんぎょ)の儀」です。

この遷御の日時は、天皇陛下がお定めになります。 神宮は、遷御の儀をこう説明しています。

100名をこえる奉仕員は御装束神宝を手に整列し、天皇陛下がお定めになられた時刻に大御神は本殿から出御され、新殿に入御されます。 ――神宮「遷宮予定年表」

1300年にわたり、いつ遷るかを決めてこられたのは、歴代の天皇なのです。

なぜ天皇が決めるのか。神宮に祀られているのが、皇室の祖先神である天照大御神だからです。皇居の賢所と伊勢の神宮は、同じ神をお祀りする、いわば対になった場所でした。


明治天皇が、変えさせなかったこと

20年という区切りが、危うくなった時期があります。明治のはじめです。

理由は、木でした。神宮の説明によれば、御造営用材はもともと宮域林から供給していましたが、鎌倉時代後期から檜の良材が採れなくなり、近隣の山や美濃の山、そして江戸時代中期からは木曽の森に頼るようになります。ところが明治になると、その木曽でも大径の檜を得るのが難しくなっていきました。

そこで、明治のなかごろ、内務大臣・芳川顕正宮内大臣・田中光顕が上奏したと伝えられます。神社庁の資料は、その中身をこう記しています。

芳川内務大臣と田中宮内大臣の二人が、神宮の式年遷宮に必要な御用材の不足を理由に、土台に礎石を置き、コンクリートで固めれば二百年は保つことが出来ると、明治天皇に上奏しました。 ――福島県神社庁「第13章 神宮式年遷宮」

木がないなら、長もちする造りに変えればよい――理屈としては、まっとうな提案です。実際、これを認めれば、20年ごとに建て替える必要はなくなります。

明治天皇は、これをお聴き入れになりませんでした。

明治天皇は、この上奏をお聴きとどけになられないで、質素な御造営に祖宗建国の姿を継承すべしと、お諭しになられ、二十年ごとに斎行される式年遷宮の大切さをお説きになりました。 ――同上

明治天皇と、20年を守った判断

そして、その後に起きたことが重要です。造り方を変えるかわりに、木を育てる仕組みがつくられました。

神宮は大正12年(1923年)、将来の遷宮を見据えて御造営用材の自給自足を目標とする「神宮森林経営計画」を策定します。宮域林に檜を植え、間伐をくり返しながら、200年で直径1メートルを超える大木に育てるという計画です。策定から約100年たった今も、この計画は続いています。

そして平成25年(2013年)の第62回。間伐材ではあるものの、約700年ぶりに宮域林から御造営用材の一部を供給できました。

やめる理由になりえたものが、育てる理由に変わったのです。 いま神宮の森で育っている檜は、次の世代、そのまた次の世代が使うためのものです。


一度、途絶えかけた

これほどの伝統ですが、一度、途切れています。

室町時代の後期、遷宮の費用にあてる税(役夫工米〈やくぶくまい〉)が集められなくなり、神宮によれば約120年あまりの間、中断せざるを得なくなりました。

再興したのは、国でも幕府でもありませんでした。神宮の説明を引きます。

やがて安土・桃山時代になると、遷宮上人と呼ばれる慶光院清順・周養の勧進によって織田信長・豊臣秀吉が遷宮費用を献納し、復興することができました。 ――神宮「式年遷宮の歴史」

慶光院(けいこういん)という尼寺の、清順(せいじゅん)・周養(しゅうよう)という二代の上人が、寄進を募って歩いた。その働きが、天下人の献納につながったのです。

神宮の再興を担ったのは、国家でも武家でもなく、二人の尼僧の足でした。

この気風は、徳川将軍家にも受け継がれます。慶長8年(1603年)、徳川家康が慶光院周養に宛てた朱印状が残っています。

伊勢両宮正遷宮の事、先例にまかせとりおこなうべき也 ――徳川家康 朱印状(神宮「式年遷宮の歴史」より)

明治時代には造神宮使庁が官制として設けられ、国家の盛儀として斎行されました。しかし戦後、昭和28年(1953年)の第59回は、GHQの神道指令により国家の手を離れます。以後は国民の奉賛が中心となり、「国民遷宮」として続いています。

1300年のあいだに、担い手は国から民へ、民から国へ、そしてまた民へと移り変わってきました。 変わらなかったのは、20年ごとに新しくするという、その行いだけです。


別の見方

式年遷宮の受け止め方も、一つではありません。

  • 文化の継承として評価する立場 ―― 建築・工芸の技術が失われずに残ってきたのは、遷宮があったからだ、という見方。神宮によれば、遷宮の時期には約150名の宮大工が造営に関わり、遷宮のない時期でも常に30名弱が社殿の修繕や次期遷宮の準備にあたっています。
  • 宗教行為として距離を置く立場 ―― 遷宮はあくまで神道の祭祀であり、国や自治体が関与すべきではない、という考え方。戦後に国家の手を離れた経緯も、この立場から説明されます。
  • 費用や環境への指摘 ―― 20年ごとに膨大な用材を必要とすることへの懸念。これに対して神宮側は、宮域林に檜を植えて自給率を高める200年計画を進めており、第62回では用材の一部を自前でまかなっています。

いずれも、事実にもとづいた議論です。


筆者の考え

ここからは、筆者の考えです。

前回、筆者は「一度途切れさせた伝統は、もう戻らない」と書きました。式年遷宮は、その反例に見えるかもしれません。120年途切れて、それでも戻ったのだから、と。

けれど、詳しく見ると、そう単純ではないと思います。

戻すために必要だったのは、二代にわたる尼僧が全国を歩いて寄進を乞うという、途方もない労力でした。それも、天下人の助けがあってようやく実りました。放っておいて戻ったのではありません。

そして、戻ったのはです。20年ごとという式年そのものは、一度崩れました。回数は数え続けられていますが、「20年ごとに一度も途切れず続いてきた」と表現することは、もうできません。 その一点だけは、どれだけ立派に再興しても取り戻せませんでした。

だからこそ、この行事の一番の凄みは、社殿の美しさでも規模でもないと筆者は思っています。理由を説明する文献が失われても、やめなかったことです。

明治天皇の判断も、そこにつながります。木がないなら造り方を変える――合理的な提案でした。それを退けたのは、理屈で勝ったからではありません。変えないと決めたからこそ、木を育てるという方向へ舵が切られたのです。順番が逆でした。

なぜ20年なのか、確かな答えは残っていない。それでも、20年たてば建て替える。理屈で守られてきたのではなく、続けるという意思だけで守られてきた。 皇位の継ぎ方も、どこか似ています。


まとめ

  • 式年遷宮とは、20年ごとに社殿・御装束・神宝のすべてを新しくし、大御神に新宮へお遷りいただく、神宮最大のお祭り。正宮のほか14所の別宮、宇治橋も造り替えられる
  • 御装束神宝は714種1576点。準備に8年余り、その間に33のお祭りと行事が行われる。
  • 社殿の敷地は東西に二つあり、交互に使う。役目を終えた側は古殿地となる。
  • 約1300年前、天武天皇のご宿願により始まり、持統天皇4年(690年)に第1回。直近は平成25年(2013年)の第62回、次回は令和15年(2033年)の第63回
  • なぜ20年なのかは、神宮自身が「定説はありません」と明言。神宮が挙げる推測は①社殿の尊厳を保つ ②伝統技術を継承する の二つ(+「など」)。「常若」は理由としてではなく、神宮の理想として説明されている。
  • 遷御の日時は、天皇陛下がお定めになる。祀られているのが皇室の祖先神・天照大御神だからである。
  • 明治のなかごろ、礎石とコンクリートで固めれば200年もつという上奏があったが、明治天皇はこれをお聴きとどけにならなかったと伝えられる。その後、神宮森林経営計画(大正12年・200年計画)によって用材を育てる仕組みがつくられ、第62回では約700年ぶりに宮域林から用材の一部を供給できた。
  • 室町後期に約120年あまり中断したが、慶光院の尼僧・清順と周養の勧進により、織田信長・豊臣秀吉が遷宮費用を献納して復興した。戦後は国家の手を離れ、国民の奉賛によって続いている。

次回

式年遷宮では、社殿も御装束神宝も、すべてが新しくつくり替えられます。けれど、決してつくり替えられないものが、皇室にはあります。

次回・第4回は、「なぜ三種の神器は公開されないのか ―― 「見せない」ことに意味がある理由」。見ることも、写すこともできないものが、なぜ皇位の証とされてきたのかをたどります。


参考・出典