「旧宮家は遠すぎる」は本当か ―― 何度も結ばれてきた、天皇家との血
2026-06-24

旧宮家の男系男子を皇室に迎える(案②)という話になると、決まって出てくる反論があります。
「旧宮家なんて、いまの天皇家から何百年も離れた、遠い血筋だ。そんな人を皇族にするのはおかしい」――いわゆる「直系から離れすぎ」という批判です。
確かに、男系(父方の血)でたどると、旧宮家といまの天皇家が枝分かれするのは、約600年も前のこと。数字だけ見れば、たしかに遠く感じます。
でも、本当に「遠い他人」なのでしょうか。今回は、あまり語られない「もう一つのつながり」を見ていきます。結論を先に言えば――旧宮家は、その後の歴史のなかで、天皇家と何度も、何度も、血を結び直してきたのです。
まず、「600年前」の意味を確認する
前提を整理します。
旧十一宮家は、すべて「伏見宮家」という一つの家から枝分かれした、男系の家でした。そして、いまの天皇家と旧宮家が、男系(父方だけをたどる線)でいちばん近くで枝分かれする祖先は、伏見宮3代・貞成親王(さだふさしんのう)。さかのぼること、約600年前です。
「直系から離れすぎ」という批判は、おもにこの600年という数字を指しています。
ここは、はっきり認めましょう。男系という一本の線でたどれば、確かに分かれ目は古い。これは事実です。

でも、家と家のつながりは、男系の一本線だけで決まるものではありません。
その後も、天皇家と「血を結び直して」きた
旧宮家は、600年前に分かれたあと、ただ離れていったわけではありません。むしろ、近代に入ってから、天皇家と繰り返し結婚で結ばれてきました。
とくに分かりやすいのが、明治天皇の皇女たちです。
明治天皇には、成人された内親王(皇女)が4方おられました。そして――その4方すべてが、のちの旧宮家に嫁がれているのです。
- 第六皇女・昌子内親王(まさこ) → 竹田宮恒久王へ
- 第七皇女・房子内親王(ふさこ) → 北白川宮成久王へ
- 第八皇女・允子内親王(のぶこ) → 朝香宮鳩彦王へ
- 第九皇女・聡子内親王(さとこ) → 東久邇宮稔彦王へ
4方が4方とも、です。これは、とても偶然とは思えません。
つながりは、これだけではありません。
- 昭和天皇の第一皇女・成子内親王(しげこ)も、東久邇宮盛厚王に嫁がれています(1943年)。
- そして、昭和天皇の皇后(香淳皇后)は、久邇宮家のご出身。つまり、上皇陛下の母君、いまの天皇陛下の祖母君は、旧宮家の方でした。
明治・大正・昭和と、天皇家と旧宮家は、世代をまたいで何重にも結ばれ続けてきたのです。

竹田家を例に ―― ある旧宮家男子は、明治天皇の「玄孫」
具体的に、一つの家系を追ってみましょう。竹田宮家です。
竹田宮の初代・恒久王に嫁がれたのが、さきほどの昌子内親王(明治天皇の第六皇女)でした。そこから血をたどると、こうなります。
明治天皇 → 昌子内親王 → 竹田恒徳 → 竹田恆和 → 竹田恒泰
評論家として知られる竹田恒泰(たけだつねやす)氏は、この系図の先にいます。つまり竹田氏は、明治天皇の玄孫(やしゃご=孫の孫)にあたるのです。
もちろん竹田氏は、男系でたどれば崇光天皇の20世孫――旧宮家らしい、れっきとした男系でもあります。
ここで注目したいのは、竹田氏が「男系の正統性」と「血の近さ」を、両方そなえているという点です。父方をたどれば崇光天皇に行きつく、れっきとした男系。そして同時に、明治天皇の玄孫でもある。「600年前に分かれた遠い人」という印象とは、ずいぶん違うのではないでしょうか。
念のため、はっきりさせておきます。ここで竹田氏を挙げたのは、広く知られていて分かりやすいからであって、「竹田氏を皇族に迎えよう」と言いたいわけではありません。むしろ竹田氏ご自身が、自分の皇族復帰については「あり得ないし、私は適任ではない」と、明確に固辞しておられます。「旧宮家には、もっとふさわしい方がいる」という趣旨です。ここで見ていただきたいのは、特定の個人ではなく、旧宮家という家系が、これほどまでに天皇家と血が近い、という事実のほうです。

これは偶然ではない ―― 皇室を守る「知恵」
なぜ、こんなにも繰り返し結婚が重ねられたのでしょうか。
そこには、天皇家との血のつながりを強めるという意図もあったと伝えられています。たとえば竹田宮家が創設された際には、皇位を継ぐ可能性のある伏見宮系と縁を深める意味合いもあって、明治天皇の第六皇女・昌子内親王が妃に迎えられた、と説明されることがあります。(婚姻の目的が一つだけだったと断定はできませんが、そうした意図がはたらいていたことは、うかがえます。)
筆者には、昔の皇室が、こう考えていたように思えます。
万一にそなえる「控えの家」(旧宮家)が、男系として正しいのは当然。だが、それだけでなく、ときどき天皇家の血を入れて、直系との「血の近さ」も保っておこう。
男系という筋(正統性)は決して曲げない。けれども、そこに直系の血の近さも足していく。この二段構えこそ、長く皇室を守ってきた人々の、静かな知恵だったと、筆者は思うのです。
別の見方
もちろん、ここは正確に押さえておく必要があります。
- これらの婚姻でできるのは、女系(母をたどる血すじ)のつながりです。男系の正統性そのものを「足す」ものではありません。旧宮家の正統性は、あくまで父方をたどる男系(貞成親王につながる線)にあります。
- また、いま養子の候補となりうる旧宮家の男系男子の全員が、明治・昭和の皇女の血を直接引いているわけではありません。家系によって、近い人もいれば、そうでない人もいます。
ですから「皇女の降嫁があったから男系継承は安泰だ」という話ではありません。そこは、混同してはいけないところです。
ただ、それでも――「旧宮家=600年前に分かれたきりの、縁もゆかりもない他人」という見方が、実態とかけ離れていることは、はっきり言えます。
筆者の考え ―― 「正統性」は男系、「近さ」は婚姻
ここからは筆者の考えです。
皇位継承の正統性は、男系にあります。これは、この連載でくり返し書いてきたとおりで、揺らぎません。父方をたどって過去の天皇に行きつくこと――それが、天皇を天皇たらしめる筋です。
その一方で、昔の人は、男系という筋を守りながら、直系の「血の近さ」も、けっしておろそかにしませんでした。だからこそ、天皇の皇女を、くり返し旧宮家に嫁がせてきた。「正統性は男系で、近さは婚姻で」。この二つを両輪で大切にしてきたのです。
「直系から離れすぎている」という批判は、この婚姻の歴史をまるごと見落としています。男系の分かれ目だけを取り出して「600年前」と言うのは、家の半分しか見ていないようなものです。残り半分――明治・大正・昭和を通じて結び直されてきた、濃い血のつながりを、見ていない。
旧宮家は、男系として正しく、しかも直系に血も近い。二重の意味で、天皇家にもっとも近い家なのです。それは偶然ではなく、皇室を守ろうとした人々が、何代もかけて積み上げてきた工夫の結果でした。
そもそも、「遠い・近い」の話ではない
もう一段だけ、ふみこませてください。
じつのところ筆者は、男系継承とは、そもそも「遠いか近いか」を競う話ではない、と考えています。父方をたどって過去の天皇に行きつく――その一点さえ通っていれば、直系であろうと傍系であろうと、皇統としての価値は同じです。直系と傍系に等しい価値を認める。その考え方こそが、男系継承の本質だと、筆者は思うのです。
だとすれば、「600年前に分かれたから遠い」という批判は、そもそも土俵がちがいます。旧宮家の男系男子は、たとえ直系から離れていても、男系である以上、皇位を継ぐ価値において今の皇室と等しい。ここまで見てきた「血の近さ」は、その正しさをさらに補強してくれる、心強い"裏づけ"――そう受け止めるのが、いちばん素直なのだと、筆者は考えています。
その工夫を、いまの私たちが「もう遠いから」と切り捨ててしまうのは、あまりにもったいない。先人が残してくれた「近さ」を、活かすときではないでしょうか。
まとめ
- 「旧宮家は直系から離れすぎ」という批判は、おもに男系の共通祖先が約600年前(貞成親王)という点を指す。男系の分かれ目が古いのは事実。
- だが旧宮家は、その後も天皇家と繰り返し結婚で結ばれてきた。明治天皇の成人された皇女4方は、全員が旧宮家(竹田・北白川・朝香・東久邇)に降嫁。昭和天皇の第一皇女も東久邇宮へ、香淳皇后は久邇宮家の出身。
- 竹田恒泰氏は、男系では崇光天皇の20世孫であり、同時に明治天皇の玄孫でもある。男系の正統性と血の近さを併せ持つ。
- これは偶然ではなく、「男系の正統性は守りつつ、直系の血の近さも保つ」という、皇室を守る意図的な知恵だった。
- ただし正確には、これらは女系のつながりで、男系正統性を足すものではない。候補となる現代の旧宮家男子全員が皇女の血を引くわけでもない。
- そもそも男系継承は「遠い・近い」を競う話ではなく、直系と傍系に等しい価値を認める考え方。その上で、旧宮家は男系として正しく、直系にも血が近い、二重に近い家である。



