旧十一宮家とは何か ―― 1947年、皇室を離れた人々
2026-06-21

皇位継承の議論で、「旧宮家の男系男子を皇室に迎える」(いわゆる案②)という話をよく聞きます。2026年6月には、この案②を含む皇族数確保策が、衆参両院で「立法府の総意」としてとりまとめられ、いよいよ具体的な制度の姿が見えてきました。
でも、そもそも「旧宮家(きゅうみやけ)」「旧十一宮家(きゅうじゅういちみやけ)」とは、誰のことなのでしょうか。
※ことばの整理:1947年に皇室を離れた人ご本人を「旧皇族」、その11の家とその子孫の系統を「旧宮家」と呼びます。案②で迎える対象は、その多くが戦後生まれの子孫なので、正確には「旧宮家の男系男子」です。
ここを知らないと、案②が「突拍子もないアイデア」に見えてしまいます。今回は、1947年に皇室を離れた11の宮家について、できるだけやさしく整理します。
1947年、11の宮家が皇室を去った
戦後まもない1947年(昭和22年)10月14日。この日、11の宮家・51人の方々が、一斉に皇室を離れ、民間人になりました。
前日には、新しい憲法のもとで初めての「皇室会議」が開かれ、この決定がなされています。
離れた11宮家は、次のとおりです。
- 伏見宮(ふしみのみや)/閑院宮(かんいんのみや)/山階宮(やましなのみや)/北白川宮(きたしらかわのみや)/梨本宮(なしもとのみや)/久邇宮(くにのみや)/賀陽宮(かやのみや)/朝香宮(あさかのみや)/東久邇宮(ひがしくにのみや)/竹田宮(たけだのみや)/東伏見宮(ひがしふしみのみや)
一方、皇室に残ったのは、昭和天皇家と、その弟君である**秩父宮・高松宮・三笠宮の3家(直宮)**だけでした。

なぜ、離れることになったのか
大きな理由は、**お金(財政)**です。
戦後、日本はGHQ(連合国軍総司令部)の占領下にありました。このとき、皇室の財産は凍結され、**「財産税」**という重い税金がかけられます。宮家の資産には、最高で約9割という税率が課されました。その結果、たくさんの宮家を経済的に支えることが、難しくなったのです。
背景には、GHQの占領方針もありました。皇室が再び大きな政治力・軍事力の核にならないよう、その規模と特権を縮小する、という考えです。
ただし、これは「GHQに一方的に押しつけられた」だけではありません。日本側にも「小さな皇室にしていこう」という考えがあり、最終的な決定は、日本の皇室会議でなされました。
そして、結果として――宮家がもっていた「万一、本流の跡継ぎが絶えたときの"控え"(受け皿)」という、長い歴史に裏打ちされた役割も、このとき静かに失われました。当時はまだ、若い男性皇族が複数おられ、継承の危機は今ほど意識されていませんでした。その「備えの喪失」が重くのしかかってくるのは、ずっとあと、平成・令和になってからのことです。
なお、「GHQは、将来の男系継承が危うくなることまで見越して、あえて宮家を整理したのか」――という議論もあります。けれど、その**"意図"までは史料によって解釈が分かれ、はっきりとは断定できません**。確実に言えるのは、結果として「備え」が失われた、という事実のほうです。
実は、11宮家はすべて「伏見宮家」の子孫
ここが、一番大事なところです。
離れた11宮家は、ばらばらの家系ではありません。たどっていくと、すべて「伏見宮家(ふしみのみや)」という一つの家に行きつきます。
伏見宮家は、南北朝時代の**崇光天皇(すこうてんのう)の皇子・栄仁親王(よしひとしんのう)**を初代とする、とても古い宮家です。
そして、江戸時代後期の当主**邦家親王(くにいえしんのう)**には、たくさんの男子がいました。その王子たちが、明治のころに山階宮・久邇宮・北白川宮…と、次々に新しい宮家を立てていきました。さらにそこから賀陽宮・朝香宮・東久邇宮・竹田宮…と枝分かれしていったのです。
つまり、**旧十一宮家は「伏見宮家という大きな幹から分かれた、いくつもの枝」**だったわけです。すべて、父方をたどれば過去の天皇に行きつく男系です。
ちなみに、今の皇室と旧十一宮家が「一番近くで枝分かれする祖先」は、伏見宮3代・貞成親王(さだふさしんのう/崇光天皇の孫)。さかのぼること、約600年前です。とても古い分かれ方ですが、それでも同じ男系でつながっています。

そして、この貞成親王の子こそ、かつて皇統の危機に迎えられた後花園天皇でした。伏見宮家は、実際に天皇を出した「実績のある控えの家」――その流れをくむのが、旧十一宮家なのです。
今の皇室とも、血のつながりがある
「80年も前に離れた、遠い人たち」と思われるかもしれません。でも、まったくの他人ではありません。
たとえば、昭和天皇の皇后(香淳皇后〈こうじゅんこうごう〉)は、久邇宮家のご出身です。つまり、上皇陛下の母君、今の天皇陛下の祖母君は、旧宮家の方なのです。
このほかにも、旧宮家は明治天皇や昭和天皇と、婚姻を通じて何重にも結ばれてきました。今も「菊栄親睦会(きくえいしんぼくかい)」という集まりを通じて、皇室との交流が続いています。
血筋の上でも、おつきあいの上でも、旧宮家は「皇室に一番近い、特別な存在」なのです。
これが「案②」の対象
ここまで分かると、案②の意味がはっきりします。
案②とは、この旧十一宮家の流れをくむ男系男子を、今の皇室が養子として迎える、という案です。
- 血筋は、父方をたどれば過去の天皇に行きつく、れっきとした男系(今の皇室との共通祖先は貞成親王)。
- かつて後花園天皇を出した家系であり、「控え」としての実績もある。
- 今も皇室と交流が続いている。
「旧宮家の復帰なんて前例がない」と言われがちですが、もともとは皇室の一員で、しかも歴史的に皇統を支えてきた家だ、という背景を知ると、見え方が変わってきます。

いま、制度はどこまで具体化したか
2026年6月にまとめられた「立法府の総意」では、この案②が、かなり具体的な形になりました。ポイントは次のとおりです。
- 対象は、旧十一宮家の子孫で、妻子のいない「15歳以上」の男系男子。本人の意思を尊重し、15歳未満は対象にしません。
- 養子となった本人には、皇位継承の資格はありません。ただし、その方に生まれてくる男子(生まれながらの男系男子)は、継承資格を持ちます。
- あわせて、女性皇族が結婚後も皇室に残る案(案①)も並び、30年ごとに制度を見直す規定が置かれました。
歴史を知ったうえで見ると、案②は「奇策」ではなく、失われた「控え」を、現代の形で取り戻そうとする試みだと分かります。
別の見方
もちろん、慎重な意見もあります。
- 皇室を離れて、すでに約80年。今の旧宮家の方々は、生まれたときから民間人という世代が中心で、長く一般国民として暮らしてきました。
- そうした方を「皇族」として、国民が自然に受け入れられるか。
- ご本人の意思や、暮らしの問題もあります。
血筋は確かでも、「国民の気持ち」や「ご本人の人生」という、別の難しさがあるのは事実です。ここは、ていねいに考える必要があります。
筆者の考え ―― 「80年」と「二千年」
ここからは筆者の考えです。
旧宮家の男系男子の活用には、「80年も民間人だった人を、今さら皇族に」という違和感が、よく語られます。気持ちは、分かります。
でも、ここで思い出したいのは、皇統は二千年以上続いてきたという事実です。その長い歴史の前では、戦後の「80年」という年月は、はっきり言って桁違いに浅い。たかだか80年の断絶をもって、二千年の血筋を否定するのは、いささか軽薄ではないか――というのが、筆者の率直な思いです。
そもそも、話の順序も逆です。旧十一宮家を民間人にしたのは、彼ら自身が望んだことではありません。敗戦と占領という非常時に、財政の都合と占領政策によって、外から線を引かれたのです。何百年も皇統を支えてきた家を、ある日を境に一斉に民間へ出した――歴史から見れば、1947年のあの決定のほうが、よほど"不自然"だったとも言えます。その不自然を元に戻すだけの話を、「奇策」と呼ぶのは当たりません。
現に、上皇后陛下も、皇后陛下も、民間のご出身です。お二方とも、国民から深く敬愛されています。つまり私たちは、「民間のご出身であること」それ自体は、とっくに受け入れているのです。ならば、皇室に血筋の近い、れっきとした男系である旧宮家の男系男子が皇族となることに、いったい何の問題があるのでしょうか。
この改正案は、「痛み分け」だと思う
最後に、今回の改正案そのものについて。
筆者は、2026年の皇室典範改正案(案①・案②の並立)は、**左派も保守派も、双方が譲らなかった末の「痛み分け」**だと見ています。左派は女系への道を開ききれず、保守は旧宮家の活用を大きく前に進めきれない。互いに相手の"本丸"を封じ合った、引き分けのような決着です。
しかも、そこには**「30年ごとの見直し」**という条項が置かれました。これは裏を返せば、この問題の決着が、これから30年、先送りされ続けるということでもあります。男系か、女系か――その根本の対立は、今回も決着しませんでした。私たちは今、30年におよぶ、長い長い議論の入り口に立っているのだと、筆者は考えています。
まとめ
- 1947年、11宮家51人が一斉に皇籍離脱し、民間人になった(残ったのは昭和天皇家+直宮3家)。
- 理由は、GHQ占領下の財産税(宮家資産に最高約9割)による財政難+GHQの皇室縮小方針+日本側の「小さな皇室」志向(決定は皇室会議)。結果として宮家の「控え(受け皿)」という役割は失われた。
- 11宮家はすべて伏見宮家の子孫=男系。今の皇室との最も近い共通祖先は伏見宮・貞成親王(約600年前/崇光天皇の孫)。後花園天皇(貞成親王の子)を出した家系でもある。
- 香淳皇后は久邇宮家の出身など、今の皇室とも血縁が深い。菊栄親睦会で交流も続く。
- 2026年6月の「立法府の総意」で案②が具体化(旧宮家子孫の妻子なし15歳以上の男系男子を養子・本人に継承資格なし/その子は資格あり・30年ごと見直し)。
- 筆者は、二千年の皇統から見れば「80年」は桁違いに浅く、旧宮家の男系男子の活用に反対する筋は乏しいと考える。一方で今回の改正案は左派・保守の「痛み分け」であり、この先30年の長い議論の入り口にすぎない。
