2026-07-09

孫に皇位をつないだ持統天皇

孫に皇位をつないだ持統天皇 ―― 壬申の乱と女性天皇

数ある女性天皇のなかでも、とりわけ有名なお一人が、持統天皇(じとうてんのう)です。

孫に皇位をつないだ天皇」として、よく知られています。けれど、その歩みは、壬申の乱(じんしんのらん)から律令国家の成立まで、飛鳥時代でも最大級の激動そのものでした。

今回は、この持統天皇を通して、「女性天皇の役割」というものを、あらためて考えてみます。


天智天皇の娘として生まれる

持統天皇――名を鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。

その立場は、たいへん特別なものでした。

  • 父は、天智天皇(てんじてんのう)(中大兄皇子)。
  • やがて、叔父にあたる大海人皇子(おおあまのみこ)――のちの天武天皇(てんむてんのう)の妃となります。
  • そして、草壁皇子(くさかべのみこ)を生みました。

つまり鸕野讃良皇女は、天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后でもあるという、皇室の中枢に立つ方だったのです。

持統天皇が、孫へつないだ皇位


壬申の乱を、ともにした

672年、古代史上でも有数の内乱が起こります。壬申の乱です。

天智天皇の崩御のあと、その子である大友皇子(おおとものみこ)と、天智天皇の弟・大海人皇子とが、皇位をめぐって争いました。結果は、大海人皇子の勝利。翌年、大海人皇子は天武天皇として即位します。

このとき、鸕野讃良皇女は、夫である大海人皇子と行動をともにしたと、『日本書紀』は伝えています。動乱の日々を、夫とともに乗り越えたのです。


草壁皇子の死 ―― 最大の転機

686年、天武天皇が崩御します。

次の皇位を継ぐ最有力と見られていたのは、鸕野讃良皇女の子、草壁皇子でした。

ところが――689年、その草壁皇子が、即位することのないまま、世を去ってしまいます。

これが、持統天皇の人生における、最大の転機でした。次の天皇と見られていた我が子を、突然失う。皇統は、宙に浮いてしまったのです。


なぜ、持統天皇が即位したのか

草壁皇子の死の翌年、690年、鸕野讃良皇女が即位します。これが、持統天皇です。

ここで、おさえておきたいことがあります。このとき、高市皇子(たけちのみこ)忍壁皇子(おさかべのみこ)といった、有力な男性の皇族が、ちゃんと存在していました。

つまり、男性の皇族が途絶えていたから、女性天皇になった、というわけではありません。むしろ、有力な男性皇族がいるなかで、持統天皇が選ばれたのです。

では、なぜ持統天皇だったのか。現在の歴史学では、亡き草壁皇子の子――つまり持統天皇の孫にあたる軽皇子(かるのみこ)へ、皇位をつなぐためだったのではないか、という見方が有力です。幼い孫が育つまでのあいだ、皇統を確かに守る。そのために、自ら位についた――というわけです。


孫へ、皇位をつなぐ

そして、697年

成長した軽皇子が、文武天皇(もんむてんのう)として即位します。持統天皇は、位を譲りました。

ここで、思い出してください。文武天皇は、亡き草壁皇子の子。すなわち、持統天皇の孫です。

こうして持統天皇は、まさに「孫に皇位をつないだ天皇」となったのです。

なお、譲位したあとの持統天皇は、太上天皇(だじょうてんのう)と称されました。これは、太上天皇号の、最初の例とされています。位を退いたあとも、若い文武天皇を支え続けたのでした。

壬申の乱から文武天皇の即位まで


女性天皇の役割だったのか

ここで、この記事の核心です。

持統天皇は、

  • 女性天皇として即位し、
  • 男系の皇統を維持し、
  • 次の世代へ、皇位をつないだ。

この点では、ほかの女性天皇とも、共通するところがあります。

けれど、それだけではありませんでした。持統天皇の時代には、

  • 藤原京(ふじわらきょう)への遷都(694年)。
  • 律令国家の基礎づくり。
  • 譲位後の、太上天皇としての政務への関わり。

といった、国のかたちを大きく前へ進める動きが、次々と進みました。

つまり持統天皇は、皇統をつなぐ役割を果たしながら、同時に、律令国家が形づくられていく時代の中心にも、おられたのです。

持統天皇の二つの役割


筆者の考え

ここからは、筆者の考えです。

持統天皇は、歴代の女性天皇と同じように、次の世代へ皇位をつなぐ役割を担った天皇だったように思います。草壁皇子の死という危機のなかで即位し、孫の文武天皇へと、皇位をつないだ。その意味では、女性天皇の典型的な役割を、果たされたと言えるかもしれません。

しかし同時に、律令国家が形を整えていく、その時代の中心にもおられました。藤原京を築き、新しい国の仕組みを進める。その歩みは、けっして小さなものではありません。

女性天皇の歴史を考えるとき、持統天皇は、一つの言葉だけでは語りきれない――そんな大きな存在なのだと、筆者は思います。

そして、今の「女性天皇」の議論で、持統天皇が「前例」として語られることがあります。けれど、当時の女性天皇は、あくまで男系の皇統のなかで即位した方々でした。持統天皇が向き合った事情と、今の議論とでは、その前提が、大きく異なっている。そのことも、静かに心にとめておきたいと思います。


まとめ

  • 持統天皇(鸕野讃良皇女)は、天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后。子に草壁皇子。
  • 672年の壬申の乱では、夫の大海人皇子(天武天皇)と行動をともにした。
  • 686年に天武天皇が崩御。次の天皇と目された草壁皇子が、689年に死去したことが最大の転機。
  • 690年に即位。高市皇子・忍壁皇子など有力な男性皇族がいるなかでの即位だった。
  • 現在の歴史学では、孫の軽皇子(文武天皇)へ皇位をつなぐための即位だった、という見方が有力。
  • 697年、孫の文武天皇に譲位(日本初の太上天皇に)。「孫に皇位をつないだ天皇」となった。
  • 持統朝では藤原京遷都など、律令国家の基礎づくりが進み、皇統をつなぐ役割と、国家形成の両方に大きな足跡を残した。

壬申の乱をくぐり抜け、我が子の死という危機を越えて、孫へと皇位をつないだ女性がいました。持統天皇です。

その歩みは、皇統をつなぐ役割と、律令国家を形づくる歩みとが、分かちがたく重なっています。

一つの言葉だけでは語りきれない――女性天皇の歴史は、そのことを、静かに教えてくれます。