2026-07-16

光格天皇はなぜ即位できたのか ―― 今の天皇につながる、傍系・男系の皇位継承
ここまで、推古天皇から後桜町天皇まで、八方十代の女性天皇をたどってきました。歴代の女性天皇は、それぞれ事情は違っても、皇統を守り、次の世代へ皇位をつなぐ役割を担ってきました。
その最後を担ったのが、前回の後桜町天皇です。そして、その後桜町上皇が見届けたのが――今回の主役、光格天皇(こうかくてんのう)の即位でした。
光格天皇は、宮家から迎えられた天皇でした。直系から離れた傍系の皇族が皇位を継ぐのは、室町時代の後花園天皇以来、およそ350年ぶりのこと。それだけでも、これがいかに異例の即位だったかが分かります。
この光格天皇の即位は、現在の天皇陛下へとまっすぐつながる、大きな転換点でした。今回も、テーマは一貫して「皇位継承」です。一人の人物伝としてではなく、皇位がどう受け継がれたか、という視点で見ていきます。
後桃園天皇の崩御 ―― 皇位継承の危機
1779年、後桜町天皇から皇位を継いでいた、甥の後桃園天皇(ごももぞのてんのう)が、わずか22歳で崩御します。
ここで、大きな問題が起こりました。後桃園天皇には、皇位を継ぐ男子が、いなかったのです。残されたお子さまは、皇女の欣子内親王(よしこないしんのう)お一人だけ。
天皇の位を、誰が継ぐのか。皇統は、ここで深刻な危機を迎えました。
なぜ、光格天皇だったのか ―― 閑院宮家の男系皇族
そこで迎えられたのが、閑院宮家(かんいんのみやけ)の兼仁親王(ともひとしんのう)でした。のちの光格天皇です。当時、まだ数え九歳の少年でした。
ここが、この記事のいちばんのポイントです。兼仁親王は、後桃園天皇の直系の子孫ではありません。けれど、男系の皇族でした。
閑院宮家は、東山天皇(ひがしやまてんのう)から続く、男系の宮家です。つまり兼仁親王は、父をたどっていけば歴代の天皇に行きつく、れっきとした男系の皇族だったのです。
なお、兼仁親王は、後桃園天皇の養子となる形で、皇位を継ぎました。血のうえでは傍系でも、こうして後桃園天皇の跡を継ぐ、という筋道が整えられたのです。
ここに、皇位継承の一つの形が見えてきます。皇位を継いだのは、後桃園天皇の直系ではなくても、父方をたどれば天皇につながる「男系の皇族」でした。直系ではなくても、男系の皇族が皇位を継ぐことがあった――その代表的な実例が、ここにあります。

直系ではなく、傍系から
もう少し、血統を整理しておきます。
後桃園天皇までの天皇家(中御門〔なかみかど〕から続く系統)と、兼仁親王の出た閑院宮家は、ともに東山天皇という、同じ祖先から分かれた家でした。後桃園天皇の系統で男子が絶えたため、分かれていた閑院宮家の側から、男系の皇族が迎えられた――という形です。
注意したいのは、「傍系だから特別」なのではない、という点です。大事なのは、父方をたどれば天皇につながる、男系の皇族だったこと。その一点でした。

後桜町上皇が、見届けたもの
ここで、前回の後桜町天皇とのつながりが出てきます。
後桃園天皇の崩御から光格天皇の即位という、この大きな局面で、重要な役割を果たしたのが、後桜町上皇でした。すでに位を退いていたとはいえ、皇室の長老――「国母(こくぼ)」と称された存在として、次の天皇を迎える場に深く関わったと伝えられています。
後桃園天皇の崩御ののち、後継者の選定をめぐって朝廷で話し合いが重ねられるなか、後桜町上皇は重要な立場にあり、その決定を支えたと考えられています。
女性天皇シリーズの最後を飾った後桜町天皇が、その目で、現在の皇室へとつながる新しい皇統の始まりを見届けた。歴史の不思議な巡り合わせを感じる場面です。
血縁と婚姻 ―― 欣子内親王
血のつながりについては、断定を避けつつ、事実だけをおさえておきます。
光格天皇は、のちに、後桃園天皇の唯一の皇女であった欣子内親王を、中宮(皇后)に迎えています。つまり、いったん分かれていた後桃園天皇の系統と閑院宮家の筋が、婚姻によって、ふたたび一つに結ばれたのです。
皇室では、このように宮家との婚姻や、皇族どうしの婚姻を重ねながら、皇統が受け継がれてきました。その積み重ねの一つが、この光格天皇と欣子内親王の婚姻だった、ということです。
現在の皇室へと、つながる
そして、ここが最大のポイントです。
光格天皇から続く男系は、こうつながっていきます。
光格天皇 → 仁孝天皇 → 孝明天皇 → 明治天皇 → 大正天皇 → 昭和天皇 → 上皇陛下 → 今上陛下

つまり、現在の天皇陛下へと続く皇統は、男系の傍系から迎えられた、この光格天皇から続いているのです。私たちが今、目にしている皇室は、240年あまり前のこの即位に、その源の一つを持っているのです。
光格天皇の功績(簡潔に)
今回は人物伝ではないので、簡潔にふれておきます。
光格天皇は、長く続いた武家の世のなかで、朝廷の権威を回復しようと努めた天皇でした。とだえていた朝廷の儀式(朝儀)を再興し、祭祀(さいし)の復興にも力を注ぎました。「尊号一件(そんごういっけん)」という、朝廷と幕府のあいだの出来事にも関わっています。
このあたりは、それ自体が大きな物語なので、詳しくは、また別の機会にゆずります。
筆者の考え
ここからは、筆者の考えです。
女性天皇シリーズを通して、見えてきたことがあります。歴代の女性天皇は、それぞれ事情は違っても、皇統を守り、次の世代へ皇位をつなぐ役割を担ってきました。
そして、その最後を担った後桜町天皇が見届けたのが、男系の傍系から迎えられた、光格天皇の即位でした。
ここで注目したいのは、光格天皇が、後桃園天皇の直系ではなかったという事実です。それでも皇位を継いだのは、男系の皇族だったからでした。皇位継承の歴史を振り返ると、このように直系ではない男系の皇族へ皇位が受け継がれた例が、実際に存在します。光格天皇の即位は、その代表的な一例です。
もちろん、現代の制度や議論を、そのまま過去に当てはめることはできません。それは慎重であるべきだと思います。
ただ、少なくとも歴史の事実として――今の天皇陛下へと続く皇統もまた、男系の傍系から迎えられた光格天皇から続いている。このことは、皇位継承を考えるうえで、知っておきたい大切なポイントだと、筆者は思います。
女性天皇たちが守りつないだ皇統は、こうして光格天皇へと受け渡され、現在の皇室へと続いていきました。一つの章が終わり、また新しい章が始まる――そんな結び目に立っていたのが、この光格天皇だったのです。
まとめ
- 後桃園天皇は1779年、22歳で崩御し、皇位を継ぐ男子を残さなかった(皇女・欣子内親王のみ)。
- 皇位継承の危機のなか、閑院宮家の兼仁親王が、後桃園天皇の養子となる形で、光格天皇として即位した(数え九歳)。
- 光格天皇は後桃園天皇の直系ではなく、東山天皇から続く男系の傍系(閑院宮家)だった。
- 譲位後の後桜町上皇が、この皇位継承の局面で重要な役割を果たした。
- 光格天皇は後桃園天皇の皇女・欣子内親王を中宮に迎え、後桃園天皇の系統と閑院宮家の筋が再び結ばれた。
- 現在の天皇陛下へと続く男系は、この光格天皇から続いている。
- 光格天皇の即位は、直系ではない男系の皇族へ皇位が受け継がれた、歴史上の重要な事例である。
女性天皇たちが守りつないできた皇統は、後桜町天皇の目の前で、光格天皇へと受け渡されました。
光格天皇は、後桃園天皇の直系ではありません。それでも皇位を継いだのは、東山天皇から続く男系の皇族だったからでした。そして、今の天皇陛下へと続く皇統は、この光格天皇から続いています。
一つの章が終わり、また新しい章が始まる――そんな結び目に立っていたのが、この光格天皇だったのです。
参考書籍
この記事のテーマを、もっと深く知りたい方へ。
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