2026-07-10

元明天皇は、なぜ即位したのか ―― 幼い皇子と平城京の時代
持統天皇が孫の文武天皇へ皇位をつないでから、わずか十年あまり。若き文武天皇が、25歳の若さで崩御します。残された首皇子(おびとのみこ)は、まだ幼い子供でした。そのとき即位したのは、文武天皇の母、元明天皇(げんめいてんのう)でした。なぜ、ふたたび女性天皇だったのでしょうか。そこには、皇統を守ろうとする、古代の皇室の考え方が見えてきます。
持統天皇の妹として生まれた阿閇皇女
元明天皇は、名を阿閇皇女(あへのひめみこ)といいます。その立場は、たいへん高いものでした。父は天智天皇(てんじてんのう)で、持統天皇の妹(異母の妹)にあたります。つまり、天智天皇の皇女であり、持統天皇の妹という、皇統の中心に近い方だったのです。のちに草壁皇子(くさかべのみこ)の妃となり、その子として文武天皇を生みました。持統天皇から見れば、阿閇皇女は、亡き草壁皇子の妻であり、孫・文武天皇の母にあたります。
文武天皇の、突然の崩御
697年、持統天皇は孫の文武天皇へ譲位しました。新しい時代が始まるはずでした。ところが――707年。文武天皇は、わずか25歳で崩御してしまいます。残された皇子、首皇子は、このときまだ6〜7歳ほど。とても、すぐに位につける年齢ではありません。こうして、皇位の継承をめぐる問題が、ふたたび起こったのです。
男性の皇族がいても、元明天皇が即位した
このとき、長屋王(ながやおう)をはじめ、有力な男性の皇族も存在していました。つまり、ここでも、男性の皇族がいなかったから、女性天皇になった、というわけではないのです。では、なぜ元明天皇だったのか。現在の歴史学では、幼い首皇子――のちの聖武天皇(しょうむてんのう)が成長するまで、母である元明天皇が、皇位を預かったのだと考えられています。
孫が育つまで皇位を守った持統天皇と、よく似た形です。我が子を失った持統天皇は「祖母」として、我が孫の成長を待つ元明天皇は「母」として、それぞれ皇統を支えたのでした。

平城京への遷都と、奈良時代の始まり
710年、元明天皇の時代に、歴史を画する出来事が起こります。平城京(へいじょうきょう)への遷都です。日本史の教科書でもおなじみの出来事で、本格的な都城(とじょう)の建設、唐(とう)の制度の本格的な導入、律令国家のいっそうの整備といった流れのなかにありました。ここから、いわゆる奈良時代が始まります。元明天皇は、単なる「位を預かった天皇」ではなく、奈良時代の出発点に立った天皇でもあったのです。

病ではなく、計画的だったとみられる譲位
715年、元明天皇は50代半ばで譲位します。当時としては、けっして若くない年齢でした。ただ、退位の事情については、いくつかのことが分かっています。重い病をうかがわせる史料は見あたらず、譲位のあとも長く存命でした(崩御は721年)。退位後は太上天皇(だじょうてんのう)として在りました。こうしたことから、病によるというより、計画的な譲位だったのではないか、と考えられています。
その譲位先は、娘の元正天皇(げんしょうてんのう)でした。ここから、二代続けて女性天皇という、めずらしい時代が始まります。
元明天皇が担った二つの役割
元明天皇の役割は、二つに整理できます。一つは皇統を守ることで、若くして亡くなった文武天皇と幼い首皇子(聖武天皇)のあいだに立ち、皇位を確かにつなぎました。もう一つは新しい時代を開くことで、平城京への遷都という大事業を進め、奈良時代の幕を開けました。

「中継ぎ」という言葉だけでは語れない天皇
元明天皇は、持統天皇ほど有名ではないかもしれません。けれど、その役割はとても大きかったと、筆者は思います。若くして亡くなった文武天皇と、まだ幼い首皇子。そのあいだに立って皇統を守ったのが、元明天皇でした。しかも、平城京への遷都という、新しい時代の大事業まで成しとげています。
女性天皇というと、「中継ぎ」という言葉だけで語られることがあります。けれど元明天皇は、皇統をつなぐ役割を果たしながら、新しい奈良の時代を開いた天皇でもありました。そして、その先には、娘の元正天皇、さらに孫・聖武天皇へと続く時代が待っていました。古代の女性天皇たちは、それぞれの場で、皇統という大きな流れを、確かに次へと手渡していった――そのことが、あらためて見えてくるように思います。



