2026-10-06

天皇陛下はなぜ大会の「開会宣言」をされるのか

天皇陛下はなぜ大会の「開会宣言」をされるのか ―― 国事行為ではない「公的行為」と、オリンピック憲章の「国家元首」

2026年9月19日、名古屋市の瑞穂公園陸上競技場で、第20回アジア競技大会の開会式が行われました。天皇陛下は、宮内庁が公表している文言で、次のように開会を宣言されています。

私はここに、愛知・名古屋において開催される第20回アジア競技大会の開会を宣言します。 ――宮内庁「主な式典におけるおことば(令和8年)」

10月18日に開幕するアジアパラ競技大会でも、天皇陛下は名古屋市での開会式に出席し、開会を宣言される予定だと報じられています。1964年の東京オリンピックでは昭和天皇が、2021年の東京2020大会では天皇陛下が、開会を宣言されています。けれども、天皇の行為を定めた憲法の条文をいくら読んでも、「大会の開会を宣言する」という仕事は出てきません。開会宣言は、どのような決まりにもとづく、どのような位置づけの行為なのでしょうか。大会の側の規則と、日本の憲法の側の考え方を、順に確かめます。


オリンピック憲章は「開催地の国の国家元首」を求めている

まず、大会の側の決まりです。オリンピックについては、国際オリンピック委員会(IOC)が定めるオリンピック憲章に、開会宣言の規定があります。日本オリンピック委員会(JOC)が公表している日本語訳では、第55条の3項が次のように定めています。

オリンピック競技大会は、開催地の国の国家元首が以下のいずれかの文章を読み上げ、開会を宣言する。 ――オリンピック憲章(2020年7月17日から有効)第55条3(JOC訳)

憲章は、読み上げる文章の型まで定めています。夏のオリンピック(憲章の言葉では「オリンピアード競技大会」)の開幕で読み上げるのは、次の文章です。

わたしは、第……(オリンピアードの番号)回近代オリンピアードを祝い、……(開催地名)オリンピック競技大会の開会を宣言します。 ――同(オリンピアード競技大会の開幕)

2021年7月23日の東京2020オリンピックの開会式で、天皇陛下は、宮内庁の公表している文言では「私は,ここに,第32回近代オリンピアードを記念する,東京大会の開会を宣言します。」と述べられました。同じ年の8月24日のパラリンピックの開会式では、「私は,ここに,東京2020パラリンピック競技大会の開会を宣言します。」と宣言されています。

つまり、オリンピックで開会を宣言するのが天皇陛下であるのは、憲章が開催国の「国家元首」による宣言を求めているからです。では、日本の「国家元首」は誰なのか。ここで、日本の憲法との関係が問題になります。


日本の憲法に「元首」という言葉はない

日本国憲法には、「元首」という言葉が一つも出てきません。明治の大日本帝国憲法は、第4条で天皇を「国ノ元首」と定めていましたが、今の憲法は、天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と定めるだけです。

この点について、政府は国会で何度も見解を示しています。1990年5月14日の参議院予算委員会で「日本の元首はだれか」と問われた工藤敦夫内閣法制局長官は、元首を「内治外交のすべてを通じまして国を代表し、行政権を掌握している存在」と定義するなら天皇は元首ではないとしたうえで、次のように答えています。

実質的な国家統治の大権を持たなくても国家におけるいわゆるヘッドの地位にある、こういう方を元首と見る見解もございますし、そういう見解もかなり有力であろうと思いますが、この定義によりますならば、今総理大臣がお答えになりましたように、天皇は国の象徴であり、さらにはごく一部ではございますけれども、外交関係におきまして国を代表する面もございます。そういう意味で、現憲法下において、そのような限定された意味におきましては元首であると言っても差し支えなかろうと、かように考えております。 ――第118回国会 参議院予算委員会(1990年5月14日)工藤敦夫内閣法制局長官

政府の立場は、「元首」をどう定義するかで答えが変わる、というものです。国を代表するヘッドという意味であれば、限定された意味で元首と言っても差し支えない。オリンピック憲章がいう「国家元首」の役割を天皇陛下が務めているのは、この限定された意味においてだと整理できます。


開会宣言は「国事行為」ではない

次に、天皇の行為のどこに開会宣言が入るのかを見ます。憲法が定める天皇の国事行為は、内閣総理大臣の任命、法律の公布、国会の召集、衆議院の解散、栄典の授与、外国の大使の接受、儀式を行うことなど、第6条と第7条に列挙されたものに限られます。宮内庁も、天皇は「日本国憲法の定める国事行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と説明しています。この一覧に、スポーツ大会の開会宣言はありません。

では、国事行為でなければ私的な行為なのかといえば、そうでもありません。政府は、天皇の行為を三つに分けて説明してきました。1984年4月5日の衆議院内閣委員会で、中西一郎総理府総務長官は次のように答えています。

天皇の行為には、国家機関として行われる国事行為、私人としての私的行為のほかに、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であるというお立場からの公的な性質を有する行為があります。天皇陛下が国会の開会式に御臨席になりお言葉を述べられる行為や、陛下が公的に外国を訪問される行為、認証官任命式等の宮中儀式、行事への御臨席、植樹祭、国民体育大会への御臨席などがそれでありまして、天皇の公的行為と呼ばれております。 ――第101回国会 衆議院内閣委員会(1984年4月5日)中西一郎総理府総務長官

国会の開会式でのお言葉、植樹祭や国民体育大会への御臨席。政府が挙げたこれらの例と同じように、大会の開会式に出席して開会を宣言されることも、この三つの分類に当てはめれば公的行為に当たると考えられます。後で紹介する憲法学者の中村睦男教授も、「国民体育大会など各種大会への出席」を公的行為の例に挙げています。

天皇の行為の三つの分類


公的行為には、三つの限界がある

公的行為は、憲法に列挙されていないぶん、範囲が広がりすぎる恐れがあります。同じ1984年の委員会では、質問した議員が、公的行為が「際限なく広がっておる、その判断の基準がない」と懸念を示し、範囲をはっきりさせるよう求めました。これに対して中西総務長官は、公的行為には三つの限界があると答えています。

これら公的行為の限界としましては三つのことがございます。第一は、国事行為におけると同様、公的行為においても国政に関する機能がその中に含まれてはいけないということであります。すなわち、政治的な意味を持つものとか政治的な影響を持つものがそこに含まれてはならないということであります。第二は、その天皇の御行為について内閣が責任をとるという行為でなければならないということであります。第三は、その行為が象徴天皇としての性格に反するものであってはならないということであります。 ――同 中西一郎総理府総務長官

政治的な意味を持たないこと、内閣が責任をとること、象徴天皇としての性格に反しないこと。政府のこの説明に当てはめてみると、国際大会の開会宣言は、特定の政策や政党に関わるものではなく、国を代表して大会の始まりを告げる行為です。公的行為である以上、内閣が責任を負うことになります。筆者は、開会宣言は三つの限界の内側に収まる、分かりやすい公的行為の一つだと考えます。

公的行為の三つの限界

宮内庁が公表している令和8年のお言葉を並べてみると、開会宣言の性格がよく分かります。全国植樹祭や学会の記念式典などでのお言葉は、「〜に出席できることをうれしく思います」と始まり、その場にふさわしい思いを述べる、まとまった文章になっています。これに対して、アジア競技大会の開会式のお言葉は、開会を宣言する一文だけです。オリンピック憲章が読み上げる文章の型まで定めているように、開会宣言は、思いを述べるための言葉というより、大会の始まりを告げるという決まった役割を果たすための言葉だと言えます。


これまでの開会宣言

確認できる例を、出典とあわせて並べます。1964年の東京オリンピックについて、2016年3月31日の衆議院本会議では、長島昭久議員が「一九六四年十月十日、昭和天皇の開会宣言で幕をあけた」と振り返っています。2021年の東京2020オリンピック・パラリンピック、そして2026年のアジア競技大会では、今の天皇陛下が開会を宣言されました。

天皇陛下による開会宣言の例

10月18日のアジアパラ競技大会では、天皇陛下が名古屋市での開会式で開会を宣言されると報じられています。


別の見方

公的行為については、憲法学の中でも考え方が分かれてきました。2001年3月14日の参議院憲法調査会で、中村睦男北海道大学大学院教授は、国会開会式でのお言葉や国民体育大会などへの出席を「象徴としての公的行為ないし公人としての行為という第三の範疇の行為として認めるのが実例であり、また学説の多数説」だと述べています。

一方で、2004年2月5日の衆議院憲法調査会の小委員会で、横田耕一流通経済大学教授は、天皇の公的行為、いわゆる第三の行為が存在するかどうかは「憲法学的には最大の問題」だと述べました。横田教授は、憲法が天皇の行為を「この憲法の定める国事に関する行為のみ」に限っていることから、国事行為以外の公的行為を憲法違反とする立場に立つと明言しています。そのうえで、仮に公的行為を認めるとしても範囲が限りなく広がる危険があるため、認めるのであれば憲法を改正して明確にし、内閣の助言と承認による縛りもはっきりさせるのが望ましい、と述べています。開会宣言のように広く受け入れられている行為であっても、その根拠をどこに置くかについては議論がある、ということです。


筆者の考え

開会宣言は、時間にすればほんの数秒です。けれども、その一文の背後には、大会の規則が求める「国家元首」と、元首という言葉を持たない日本の憲法との間を、政府の解釈と長い実例がつないでいる、という仕組みがあります。

筆者は、開会宣言が、決められた型の一文だけで行われていることに意味があると考えます。陛下が式典で述べられるお言葉の多くは、その場にふさわしい思いを込めた文章です。けれども開会宣言は、陛下ご自身の考えを述べる場ではなく、国を代表して大会の始まりを告げる場として、一文にとどめられています。政治的な意味を持たず、内閣が責任を負い、象徴としての性格に反しない。公的行為の三つの限界は、こうした形で守られているのだと思います。10月18日の開会式でも、開会を告げる一文が会場に響くはずです。


参考・出典