2026-07-12

連載「女性天皇をたどる第6回(全6回)

二度即位した女帝 孝謙・称徳天皇

孝謙・称徳天皇は、どんな天皇だったのか ―― 二度即位した女帝

世間では、しばしば「道鏡事件の女帝」として知られる方がいます。孝謙・称徳天皇(こうけん・しょうとくてんのう)です。

けれど、本当に特別なのは、その事件ではないように思います。

日本の歴史に、女性天皇は八方十代おられます。そのなかでも、この方は、

  • 女性で、ただ一人の皇太子
  • 二度、即位した天皇

という、きわめて特異な存在でした。今回は、道鏡事件から少し離れて、「孝謙・称徳天皇という人物」そのものを、見つめてみます。


女性で、ただ一人の皇太子

まず、この記事でいちばん知っていただきたいことから。

孝謙天皇は、名を阿倍内親王(あべのひめみこ)といいます。父は聖武天皇(しょうむてんのう)、母は光明皇后(こうみょうこうごう)です。

そして738年、阿倍内親王は、皇太子に立てられます。

ここが、驚くべき点です。日本の長い歴史のなかで、女性が皇太子になったのは、この方ただ一人。あとにも先にも、女性の皇太子は、阿倍内親王しかいません。

聖武天皇から称徳天皇までの流れ

では、なぜ、それが可能だったのでしょうか。

聖武天皇と光明皇后のあいだに生まれた皇子(基王〔もといおう〕)は、生後まもなく亡くなっていました。けれど、聖武天皇には、ほかの夫人とのあいだに、安積親王(あさかしんのう)という男子もいました(安積親王も、のちに若くして世を去ります)。

さらに当時は、男系男子の皇族がいなかったわけでもありません。たとえば、のちに淳仁天皇となる大炊王(おおいのおう)も、天武天皇の血を引く男子の皇族の一人でした。

つまり、「跡を継ぐ男子がいなかったから、やむなく女性を立てた」というわけではないのです。そうした状況のなかで、聖武天皇は、738年に、娘の阿倍内親王を皇太子に立てていました。そして749年の即位は、その皇太子が、そのまま皇位を継いだものでした。

「女性だから中継ぎ」ではなく、正式に立てられた皇太子として、皇位を継いだ。ここが、大切なところです。


父と母 ―― 聖武天皇と光明皇后

人物を知るには、その両親を知るのが近道です。

父の聖武天皇は、東大寺の大仏を造立したことで知られる天皇です。仏教の力で国を安んじようとした、いわゆる「国家仏教」の時代の中心にいました。

母の光明皇后は、藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘でした。実はこの光明皇后も、歴史に名を残しています。皇族以外(臣下)の出身で、初めて皇后になった方なのです。

つまり阿倍内親王は、天皇である父と、藤原氏出身の母という、当時の権力の中心が交わるところに生まれた方でした。藤原氏との深い結びつきは、この方の生涯を考えるうえでも、見落とせません。


孝謙天皇として、即位する

749年、皇太子だった阿倍内親王が、皇位を継ぎます。後世、「孝謙天皇」と追号される天皇です。

これまで見てきた推古天皇、元明天皇、元正天皇は、皇位継承を安定させたり、幼い皇子へ皇位をつないだりする役割を担って即位しました。一方、孝謙天皇は、皇太子として立てられ、その資格にもとづいて皇位を継いだという点で、即位までの経緯が異なります。

時代は、東大寺の大仏に象徴される、仏教を重んじる国づくりの、まっただ中でした。父・聖武天皇から娘・孝謙天皇への継承は、当時としては、比較的すんなりと受け入れられたと見られています。


なぜ、退位したのか

758年、孝謙天皇は、淳仁天皇(じゅんにんてんのう)へ譲位し、上皇となります。

ここで、おさえておきたいことがあります。当時の「退位」は、そのまま権力を手放すことを、意味しませんでした。

奈良時代には、位を退いた上皇もまた、政治に大きな影響力を持ち続けることが、めずらしくなかったのです。事実、孝謙上皇は、このあと、淳仁天皇やそれを支える勢力と対立し、ふたたび政治の前面に出ていくことになります。


二度、即位する ―― 重祚という特別さ

そして764年、孝謙上皇は、ふたたび天皇の位につきます。後世、「称徳天皇」と追号されることになります。

一度退いた天皇が、もう一度即位することを、重祚(ちょうそ)といいます。

ここが、もう一つの特異な点です。日本の長い歴史で、重祚した天皇は、

の、たった二例だけ。そして、そのどちらもが、女性天皇でした。

二度即位した天皇(重祚)

日本史で二例しかない重祚が、そのどちらも女性天皇だったという事実は、とても興味深いところです。


なぜ、道鏡を重用したのか

この方を語るとき、避けて通れないのが、僧・道鏡(どうきょう)の存在です。ここは、簡潔にふれておきます。

上皇となった孝謙が病に伏せたとき、看病にあたったのが道鏡でした。『続日本紀(しょくにほんぎ)』は、上皇がこの道鏡を深く信任し、やがて道鏡が異例の昇進をとげた、と伝えています。

ただし、二人の男女の関係を示す史料は、確認できません。後世さまざまに語られてきましたが、確かなのは「強い信任があった」という事実だけです。

そして、この信任が、やがて宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)という、皇位継承をめぐる大きな出来事につながっていきます。その詳しい経緯は、別の記事でくわしく見ていきます。

孝謙・称徳天皇の年表


古代、最後の女帝

770年、称徳天皇は崩御します。

そして、この方を最後に、女性天皇は、およそ850年ものあいだ、現れませんでした。次に女性天皇が立つのは、はるか江戸時代の初めまで待つことになります。

孝謙・称徳天皇は、まさに「古代最後の女帝」でした。その崩御は、日本の歴史における、一つの大きな転換点だったのです。


筆者の考え

ここからは、筆者の考えです。

孝謙・称徳天皇は、しばしば「道鏡事件の女帝」として語られます。けれど、本当に特別なのは、その事件ではないように、筆者には思えます。

女性で、ただ一人、皇太子となり、そして、二度、天皇となった。推古天皇や元明天皇、元正天皇が、皇位をつなぐ役割を担って立たれたのに対し、孝謙天皇は、皇太子という資格にもとづいて位を継いだ――その歩みは、これまでの女性天皇とは、少し性格が違っています。

聖武天皇の後継として生まれ、女性皇太子として育てられ、二度までも位についた。その重みがあったからこそ、この方の一挙手一投足は、後世まで語り継がれることになったのでしょう。

「道鏡事件の人」という一言で片づけるには、あまりに大きな天皇だった――そう思うのです。


まとめ

  • 孝謙天皇(阿倍内親王)は、聖武天皇と光明皇后の娘。母の光明皇后は、臣下から初めて立った皇后。
  • 738年、日本の歴史で唯一、女性の皇太子に立てられた
  • 男系男子の皇族がいないわけではなかったが、聖武天皇は、皇太子に立てていた阿倍内親王に皇位を継がせた。
  • 749年に即位し、758年に淳仁天皇へ譲位して上皇となった。
  • 764年に重祚して称徳天皇となった。重祚は日本史で皇極(斉明)とこの二例のみで、どちらも女性天皇。
  • 病を看病した僧・道鏡を信任したが、男女関係を示す史料はない(事件の経緯は別の記事で)。
  • 道鏡事件の印象が強いが、人物として見れば、皇太子の資格にもとづいて即位した、ほかに例のない歩みの女性天皇だった。
  • 770年に崩御。古代最後の女性天皇となり、その後およそ850年、女性天皇は現れなかった。

女性で、ただ一人の皇太子。そして、二度、天皇となった女帝。

「道鏡事件の人」という一言で片づけるには、あまりに大きな歩みでした。皇太子という資格にもとづいて位を継いだその姿は、これまでの女性天皇とも、少し性格が違っています。

そして、この方を最後に、女性天皇はおよそ850年ものあいだ、現れませんでした。古代最後の女帝の崩御は、日本の歴史の、一つの大きな転換点だったのです。