2026-07-14

連載「女性天皇をたどる第7回(全8回)

なぜ、850年ぶりに女性天皇が誕生したのか

なぜ、850年ぶりに女性天皇が誕生したのか ―― 明正天皇と江戸時代の皇位継承

前回まで見てきた称徳天皇が崩御したのは、770年のことでした。

そして、そこからおよそ850年ものあいだ、女性天皇は、一人も現れませんでした

ところが、はるか時代がくだった江戸時代――突然、女性天皇が即位します。明正天皇(めいしょうてんのう)です。

なぜ、850年ぶりに、女性天皇が誕生したのでしょうか。そこには、古代とそれほど変わらない、皇位継承の事情がありました。今回は、この明正天皇という人物を、見つめてみます。


明正天皇とは、どなたか

明正天皇は、名を興子内親王(おきこないしんのう)といい、第109代の天皇です。

その血筋は、とても特別なものでした。

  • 父は、後水尾天皇(ごみずのおてんのう)
  • 母は、東福門院(とうふくもんいん)。そのお名前を、徳川和子(とくがわ まさこ)といいます。
  • そして、母方の祖父――外祖父は、なんと江戸幕府の二代将軍・徳川秀忠(とくがわ ひでただ)でした。

つまり明正天皇は、天皇家と、徳川将軍家、その双方の血を引く天皇だったのです。歴代の天皇のなかでも、徳川将軍を外祖父に持つのは、この方ただ一人です。

明正天皇の血筋(天皇家と徳川家)


なぜ、即位したのか

ここが、この記事のいちばんのポイントです。

1629年、父の後水尾天皇は、幕府へ事前に相談することもないまま、突然、譲位します。

その背景には、朝廷と幕府の、深い緊張がありました。とくに、天皇が出した命令を幕府が無効としてしまった「紫衣事件(しえじけん)」は、天皇の権威を大きく揺るがしました。後水尾天皇は、幕府への事前の通告もないまま、譲位に踏み切ったと伝えられています。

ただし、譲位の理由を、紫衣事件ひとつに決めつけることはできません。さまざまな事情が、重なっていたと見られています。

では、なぜ、譲位先が「娘」だったのでしょうか。

実はこのとき、後水尾天皇には、すぐに位を継げる男子が、いませんでした。徳川和子とのあいだに生まれた皇子たち(高仁親王〔たかひとしんのう〕など)は、いずれも幼くして亡くなっていたのです。

そこで、和子の娘である興子内親王が即位し、明正天皇となりました。徳川将軍家の血を引く内親王であったことも、当時の政治状況のなかで、無関係ではなかったと考えられています。当時、明正天皇は、まだ数え七歳。ほんの幼い内親王でした。実際の政務は、譲位した父・後水尾上皇が、院政(いんせい)という形で担い続けました。

ここで、思い出していただきたいことがあります。古代の元明天皇元正天皇もまた、幼い男系男子が成長するまで、女性が皇位を預かり、やがて男子へと、皇位をつなぎました。明正天皇の即位も、見方を変えれば、それと同じ役割を担うものでした。850年の時を隔てても、女性天皇の立ち位置は、どこか似ていたのです。


なぜ、850年ぶりだったのか

称徳天皇から明正天皇まで、その間はおよそ859年。実に、約850年ぶりの女性天皇でした。

称徳天皇から明正天皇までの約850年

なぜ、これほど長く女性天皇が現れなかったのか。そこには、さまざまな歴史的背景がありますが、本記事では深入りせず、あくまで「明正天皇という人物」に焦点を当てたいと思います。

ここでおさえておきたいのは、ただ一つ。称徳天皇のあと、約850年ものあいだ、女性天皇はいなかった。その長い空白を破って即位したのが、明正天皇だった、という事実です。


独身を貫いた

明正天皇もまた、生涯、独身でした。子もいません。

なぜ結婚しなかったのか。その理由は、史料にはっきりとは書かれていません。ですので、ここでは断定を避けます。

ただ、一つの事実があります。歴代の女性天皇八方十代のうち、後半の四方――

  • 元正天皇
  • 孝謙(称徳)天皇
  • 明正天皇
  • 後桜町天皇(ごさくらまちてんのう)

は、全員が、生涯独身でした。明正天皇も、その一人です。これは推測ではなく、史実として、はっきりしています。結婚しなかった理由までは、史料に残っていません。ただ、女性天皇が結婚して子をもうければ、新たな皇位継承をめぐる問題が生じる可能性はあった、とも考えられます。男系の皇統を、揺らさずに次の世代へ渡す――後半の女性天皇が、そろって独身を通した背景には、そうした事情もあったのかもしれません。いずれにせよ、四方が皆、独身を貫いたことだけは、確かな事実です。


後光明天皇へ、譲位する

やがて、後水尾天皇の皇子で、明正天皇の弟(異母弟)にあたる方が成長します。のちの後光明天皇(ごこうみょうてんのう)です。

後光明天皇は、中宮・徳川和子の子ではなく、別の女性とのあいだに生まれた皇子でした。つまり、徳川の血を引いていたのは、明正天皇の一代だけだったのです。

1643年、明正天皇は、この後光明天皇へ譲位しました。明正天皇は、二十歳ほど。後光明天皇は、まだ数え十一歳の少年でした。

後水尾天皇から後光明天皇までの流れ

こうして見ると、明正天皇もまた、皇位を、次の世代へと確かにつないだ天皇だったことが分かります。父・後水尾天皇から、弟・後光明天皇へ。そのあいだに立って、皇位を守ったのです。


筆者の考え

ここからは、筆者の考えです。

850年という、気の遠くなるような年月が流れても、変わらないものが、ありました。

女性天皇と一口にいっても、その即位の事情は、さまざまです。そのなかでも、推古天皇、元明天皇、元正天皇、そして明正天皇には、幼い男系男子へ皇位をつなぐという、共通した役割が見えてきます。時代も、政治のかたちも大きく違うのに、その立ち位置は、不思議なほど似ているのです。

明正天皇は、850年ぶりに現れた女性天皇でした。けれど、その即位は、「新しい制度」の始まりではなかったように思います。むしろ、古くから続いてきた皇位継承の考え方の、延長線上にあった。そう見るほうが、自然なのかもしれません。

長い空白をはさんでも、変わらなかったもの。それを思うとき、皇位というものの重みが、静かに伝わってくる気がします。


まとめ

  • 明正天皇は第109代天皇。名は興子内親王。
  • 父は後水尾天皇、母は徳川秀忠の娘・東福門院(徳川和子)。天皇家と徳川将軍家、双方の血を引く。
  • 称徳天皇以来、約850年(正確には859年)ぶりの女性天皇だった。
  • 1629年、後水尾天皇の突然の譲位を受けて即位(背景に紫衣事件など、幕府との緊張)。和子との皇子が早くに亡くなっていたため、徳川の血を引く娘が立った。実権は父・後水尾上皇が院政で保持。
  • 生涯独身を貫き、子は持たなかった。歴代後半の女性天皇四方は、全員が独身。
  • 1643年、成長した弟・後光明天皇へ譲位した。
  • 推古天皇・元明天皇・元正天皇と同じように、幼い男系男子へ皇位をつなぐ役割を担ったと考えられる。

850年という、気の遠くなるような年月が流れても、変わらないものがありました。

推古・元明・元正、そして明正――時代も政治のかたちも大きく違うのに、その立ち位置は、不思議なほど似ています。幼い男系男子へ、皇位をつなぐ。

明正天皇の即位は、新しい制度の始まりではなく、古くから続く皇位継承の考え方の、延長線上にあったのかもしれません。