2026-08-19

連載「天皇と靖国神社第5回(全7回)

靖国神社とは何か

靖国神社とは何か ―― 創建から今日までの歩みを、皇室の視点でたどる

富田メモ昭和天皇の参拝A級戦犯東京裁判――。ここまで、戦後の靖国神社をめぐる論点を、皇室の視点から見てきました。

けれど、そのすべての土台にあるのは、もっと素朴な問いです。そもそも、靖国神社とは、どんな神社なのか。この記事では、明治初期の創建から今日にいたるまでの歩みを、事実にもとづいて整理します。連載の締めくくりとして、そして、これまでの記事の土台として、静かにたどっていきたいと思います。


明治のはじめ、東京九段に生まれた神社

靖国神社の起源は、明治のはじめ、まだ元号が「明治」になってまもない頃にさかのぼります。

戊辰戦争(1868〜1869年)で命を落とした官軍の戦没者を、どうお祀りするか。時代の変わり目、内戦の犠牲となった人々への鎮魂は、新しい国家にとって重い課題でした。この問題に対して、大村益次郎(おおむら ますじろう)――近代日本陸軍の基礎を築いた軍人政治家――が、東京に招魂社を創建することを献策します。

そして明治2年(1869年)6月29日、明治天皇の思し召しによって、東京九段の地に、社が創建されました。名は「招魂社(しょうこんしゃ)」――のちに「東京招魂社」とも呼ばれます。まず、戊辰戦争で亡くなった3,588柱(はしら)が、ここに祀られたと伝えられています。「柱」とは、神様を数える単位です。


「靖国」という名の意味

創建から10年後、明治12年(1879年)6月4日、社号が改められます。「靖国神社」――今日まで続く、この名です。

「靖国」という言葉は、明治天皇が名づけたものと伝えられています。典拠は、中国の古典『春秋左氏伝(しゅんじゅうさしでん)』にある、「吾以(もっ)て国を靖(やす)んずるなり」という一節。国を、平らかに安んじる――そういう意味です。

戦争で命を落とした人々を鎮魂することを通じて、国を平らかに保つ。その願いが、この名には込められています。単なる戦没者の追悼を超えて、「国を安んじる」という祈りが、社号そのものに刻まれているのです。

「靖国」の意味 ―― 明治天皇が命名


戦前 ―― 国家神道の中心として

明治から昭和のはじめにかけて、靖国神社は、単なる一つの神社ではありませんでした。近代国家日本のために命を捧げた戦没者を、国家として鎮魂する場として、特別な位置を与えられていきます。

明治政府は、神道を国家の精神的な柱として位置づける政策をとりました。いわゆる国家神道です。そのなかで、靖国神社は、戦没者の鎮魂を担う神社として、事実上、国家によって管理されるようになります。

例大祭には、天皇の使い(勅使)が遣わされ、多くの国民が参拝しました。日清・日露戦争、第一次世界大戦、そして日中戦争・太平洋戦争と、戦争のたびに、新たな戦没者が合祀されていきます。祀られる柱の数は、大きくふくらんでいきました

現在、靖国神社に祀られている柱は、同社によれば246万6千余柱にのぼります。その大部分が、明治以降の戦争で命を落とした人々です。


戦後 ―― 宗教法人へ

1945年、敗戦を迎えます。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、国家と神道を切り離す政策をとりました。いわゆる神道指令です。これにより、靖国神社は、国家の管理下から離れ、一つの宗教法人として再出発することになります。

そして1947年、施行された日本国憲法は、第20条で「政教分離の原則」を定めました。国が特定の宗教を支援したり、宗教活動を行ったりしてはならない。これが、戦後の日本の、基本的な枠組みです。

靖国神社は、こうして戦前の「国家の神社」から、戦後の「一つの宗教法人」へと、位置づけを大きく変えました。この変化は、その後の靖国をめぐる議論の、決定的な前提になっていきます。


昭和天皇の親拝 ―― 戦後の8回

戦後、宗教法人となった靖国神社に、それでも、昭和天皇は、たびたび親拝されました。

記録に残る限り、戦後、昭和天皇が靖国神社を親拝されたのは、計8回とされます。

  • 1945年(昭和20年)11月20日 ―― 敗戦直後の臨時大招魂祭
  • 1952年10月16日
  • 1954年10月19日 ―― 例大祭
  • 1957年 4月23日 ―― 例大祭
  • 1959年 4月 8日 ―― 臨時大祭
  • 1965年10月19日 ―― 臨時大祭
  • 1969年10月20日 ―― 創立100年記念大祭
  • 1975年(昭和50年)11月 ―― これが、最後

※ 各回の日付は、一般に伝えられている記録によります。国会でも「天皇が戦後も八回靖国神社へ御参拝……一回は単独で、七回は皇后様と御一緒に」(1986年3月・衆議院予算委員会第一分科会)、「御親拝した最後は昭和五十年、一九七五年」(2025年3月・衆議院厚生労働委員会)と確認されています。

戦争で命を落とした人々を、静かに悼む。その営みは、戦後の混乱期から、高度経済成長の時代へと、絶えることなく続いていました。

けれど、1975年の親拝を最後に、その足は途絶えます。


1978年の合祀と、親拝の中断

1978年(昭和53年)10月、靖国神社は、大きな判断をします。東京裁判で有罪となったA級戦犯とされる14柱を、「昭和殉難者(しょうわじゅんなんしゃ)」として、合祀したのです。この判断を下したのは、宗教法人である靖国神社そのものでした。

そして、この合祀のあとも、昭和天皇の親拝が再開されることは、ありませんでした。ただし、先に見たとおり最後の親拝は1975年11月で、合祀はその3年後です。「合祀を境に参拝をやめた」という単純な順序ではありません。

では、なぜ親拝がなされなかったのか。その理由をめぐっては、後年、富田メモが大きな議論を呼びました。

元宮内庁長官・富田朝彦氏のメモには、昭和天皇がA級戦犯合祀に強い不快感を示していたという趣旨の記述があります。詳しくは、富田メモの記事と、昭和天皇の参拝が途絶えた経緯の記事を、あわせてお読みください。

昭和天皇 戦後の親拝と、その中断

そして、昭和から平成、平成から令和へと、天皇の靖国神社への親拝は、今日にいたるまで、再開されていません


現在 ―― 政教分離と象徴天皇のもとで

なぜ、今も天皇の親拝は行われないのか。ここは、事実として、静かに整理しておきたいところです。

理由は、大きく分けて、二つの層にわたります。

一つは、憲法上の枠組みです。日本国憲法のもとで、天皇は「日本国および日本国民統合の象徴」と位置づけられています。そして、政教分離の原則があります。特定の宗教法人である靖国神社への公式な参拝は、この原則と、微妙な緊張関係を持ちます。

もう一つは、A級戦犯合祀をめぐる、政治的・外交的な論争です。合祀以降、天皇の親拝は、国内外で、繰り返し議論の的となってきました。

この二つが重なり合うなかで、天皇の親拝は、行われないまま今日にいたっています。

なお、天皇は、政治的な事柄について立場を示さない、というのが日本国憲法のもとでの原則です。靖国参拝は、政治的な論争を含みます。ですから、この問題は、天皇個人のご意思の問題として語るのではなく、戦後の憲法体制と、歴史的経緯の全体のなかで考える必要があります。


筆者の考え

ここからは、筆者の考えです。

靖国神社について、筆者は、いつも一つのことを思います。

この社にお祀りされているのは、日本のために命を捧げた、名も知られぬ多くの先人たちです。その多くは、政治のためではなく、家族のため、故郷のため、この国のために命を落としました。若く逝った兵士、家族に手紙を残して戦場に向かった人、遺骨さえ帰ってこなかった人――一人ひとりに、静かな人生がありました。

そうした先人たちを悼む。それは、政治的な立場を超えた、最も素朴で、最も大切な営みだと、筆者は考えます。

だからこそ、思うのです。靖国神社が、政治的なカードとして使われることは、そこにお祀りされている先人たちが、最も望まないことではないか、と。

賛成か、反対か。参拝するか、しないか。誰が行くか、行かないか。そのように、靖国が政局や外交の道具として扱われるとき、そこで見えなくなっているのは、祀られている一人ひとりの、静かな祈りではないでしょうか。

「靖国」――国を、平らかに安んじる。明治天皇が名づけたその言葉には、戦没者を鎮魂することを通じて、国を、そして人々の心を、静かに保っていく、という願いが込められていたはずです。政治的な対立の場にすることは、その原点から、最も遠い姿だと、筆者は思います。

そのうえで、これは筆者の一つの願いです。いつの日か、陛下が、再びこの社に、静かに参拝できる日が来ることを、切に願っています。政治的な論争を離れて、ただ、戦没者を悼むという、本来最も自然でおだやかな営みが、いつか取り戻されるように――。

そのためには、私たち一人ひとりが、まず、この社の原点を、静かに思い出すことから始める必要があるのかもしれません。


まとめ

  • 靖国神社は、1869年(明治2年)、明治天皇の勅命により東京九段に創建された。前身は「東京招魂社」。
  • 「靖国」は明治天皇が『春秋左氏伝』から命名。「国を平らかに安んじる」意味。
  • 戦前は国家神道の中心として、戦没者の鎮魂を担った。現在、約246万柱が祀られている。
  • 戦後は神道指令と憲法20条(政教分離)により、一つの宗教法人となった。
  • 昭和天皇は戦後8回親拝したが、1975年11月を最後に中断。1978年のA級戦犯合祀が背景。
  • 平成・令和にいたるまで、天皇の親拝は再開されていない。憲法上の枠組みと、合祀をめぐる論争が重なる。

「靖国」の原点は、戦没者を鎮魂することを通じて、国を平らかに安んじること。政治的なカードとして扱われることが、その原点から最も遠いのではないか――静かにそう考えます。


参考・出典